理知と感情との調和
子供のころ、遠足があるとなると、前の晩は楽しみだったろうとおもいます。
興奮してなかなか寝つかれなかったかもしれません。
そんなとき、眠くはない。起きていたい。
しかしそのまま起きていれば、
そのために寝坊して、あしたの遠足に遅刻したら困るので、
眠くはなくても床についていませんでしたか?
森田療法でいわれる「理知と感情との調和」を
具体的にいってみれば、このようなことです。
「これが森田療法だ」といわれると、拍子抜けのするくらい、
あたりまえのことですよね。
眠くはない。起きていたいが、仕方ないので、床にいるだけです。
細かくいえば
「起きていたい」というのが感情で、
「遅刻したら困るから、仕方なく寝ている」というのが理知です。
(「理知」というのは、現実的な視点、といいかえると
わかりやすいかもしれませんね)
ポイントはどちらも自分から湧き出たものであるという点です。
その意味で「我の発揮」であるのです。
しかしこんなとき、親に「あした遠足だからはやく寝なさい」といわれると、
たちまち嫌になりますよね。
「わかっているヨ!」といいたくなります。
同じようなことでも、人から言われると、嫌になります。
言われたとたん、自分の主体的な行動が「モットー」の様相を帯びてきます。
その結果感じられる、「縛られる感じ」に反発するのでしょう。
まちがった森田療法の指導とは、このお節介な親のようなものです。
言われた神経症者が、子供のように反撥ができるのなら
まだラッキーです。
しかしかなりの人が、
この「モットー」をうけいれて、いわば他律的にモットーに縛られる形で、
「床に就く」という「正しい行動」を遂行するのです。
いい子です・・・
しかしそもそも神経症になったのも、
その「いい子」であることが招いた結果なのです。
「こうすべき」ということがハナからあるのではなく、
そのときそのときの
「感じ」
によって、
「自分が」
決めていくことに森田療法の醍醐味があります。
それは森田療法だけでなく「生きるということ」そのものにも
言えることではないでしょうか。
興奮してなかなか寝つかれなかったかもしれません。
そんなとき、眠くはない。起きていたい。
しかしそのまま起きていれば、
そのために寝坊して、あしたの遠足に遅刻したら困るので、
眠くはなくても床についていませんでしたか?
森田療法でいわれる「理知と感情との調和」を
具体的にいってみれば、このようなことです。
「これが森田療法だ」といわれると、拍子抜けのするくらい、
あたりまえのことですよね。
眠くはない。起きていたいが、仕方ないので、床にいるだけです。
細かくいえば
「起きていたい」というのが感情で、
「遅刻したら困るから、仕方なく寝ている」というのが理知です。
(「理知」というのは、現実的な視点、といいかえると
わかりやすいかもしれませんね)
ポイントはどちらも自分から湧き出たものであるという点です。
その意味で「我の発揮」であるのです。
しかしこんなとき、親に「あした遠足だからはやく寝なさい」といわれると、
たちまち嫌になりますよね。
「わかっているヨ!」といいたくなります。
同じようなことでも、人から言われると、嫌になります。
言われたとたん、自分の主体的な行動が「モットー」の様相を帯びてきます。
その結果感じられる、「縛られる感じ」に反発するのでしょう。
まちがった森田療法の指導とは、このお節介な親のようなものです。
言われた神経症者が、子供のように反撥ができるのなら
まだラッキーです。
しかしかなりの人が、
この「モットー」をうけいれて、いわば他律的にモットーに縛られる形で、
「床に就く」という「正しい行動」を遂行するのです。
いい子です・・・
しかしそもそも神経症になったのも、
その「いい子」であることが招いた結果なのです。
「こうすべき」ということがハナからあるのではなく、
そのときそのときの
「感じ」
によって、
「自分が」
決めていくことに森田療法の醍醐味があります。
それは森田療法だけでなく「生きるということ」そのものにも
言えることではないでしょうか。
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