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解放させるもの・束縛させるもの


森田療法には、

「森田療法は禅そのものである」と主張する
禅的森田療法とでもいいうる一派が存在します。

その主張にかならず見受けられるのは、

「我々こそ森田療法の原法を受け継ぐ本物、
 他の森田療法はマチガイで変質している、
 他の森田療法指導者はわかっていない、悟っていない、
 禅を知らない、だからダメ」


というものです。

あるいは本来の森田療法を我々はさらに進化させている、
という主張もあります。



しかし
禅的森田療法の指導は、むしろ森田療法の本質から変化しているというのが
私の考えです。
というより経験や見聞から得たファイナルアンサーです。



もちろん、この答えを信じる信じないは自由です。

ただ、あまりいわれないことなので、
このように言葉で残しておいてもいいかと考えています。



禅的森田療法は本来の森田療法の本質から変化している。


つまり、本来の森田療法がもたらすのが、
強迫からの解放、思想からの解放、人情への復帰
であるとするならば、

禅的森田療法はその逆なのです。

人情の抑圧であり、禅、仏教などへの思想的レベルでの拘泥であり、
またなにより患者の強迫を強める装置としては
多大な威力を発揮しています。


禅的森田療法の指導者やその周辺の賛同者は、
患者に対して、その強迫性をつよめるような言葉を多く発しています。



たとえば、

「心の状態を自分の行動の原理にしないことです。
 例えば不安の時には消極的になったり、安心の時には積極的になるのは、
 人情ながら本物ではない」

などと指導者はいうのです。


「本物ではない」のひとことが強迫へのスパイスとして効いています。




哀れな患者は、その言葉を聞いて、「本物」にならなきゃ、と
焦りだします。(この、本物にならなきゃ、なれなくては大変だ、
という心理がすでに強迫的です)

そうして、大事な人情をおさえつけて、落ち込んでいるときにも
やたら元気に精力的に、笑顔をふるまい、
やりたくもない、やらなくてもいい「作業」を精力的にこなす、
「スーパー健康人」ができあがります。



まわりは、そんな彼をみて、気持ち悪いので、
あまり近づきたがらず、浮いてしまいます。


まわりは、彼の「心の偽装」の癖をちゃんとみぬいています。
表面的には丁寧なふるまいをしていても、
「この人物、油断がならない。本音をださない」
「こいつとつきあっても面白くない。やたら丁寧だけど。」
などと知らず知らずみぬいて、あまり付き合わないようになります。


実際森田療法のまわりで、こういう「慇懃無礼」な人物は、
多くみうけられます。


表面的にはやたら丁寧、それでいて、その裏に、
「自分の考えを他人に納得させたい」(それは禅的森田こそ本物だという
ことが多いですが)
という強いドグマを感じさせているので、
丁寧さが一転、相手を侮辱した言い草に変化したりします。



それはともかく、


行動が心の状態の影響をうけるのはよくない、


という指導者の言葉は、
じゅうぶん患者を強迫的にさせるチカラをもってしまうのです。



まして入院という遮断された環境の中で、
カリスマのように多かれ少なかれ在らざるをえない
指導者の言葉ですから、
盲信して、強迫的に健康にふるまい、
心の声を無視して、
そうして退院したらドッと疲れて、
その後はなにもしなくなったりする、のです。

そしてその、「何もしなくなった自分」は
指導者の言葉と食い違う訳ですから、

そうした自分をやたら責める、

という苦しい日々をおくることになります。


周囲の人から見れば、
「彼は森田療法の入院をしなければ、こんなに
おかしくならずに済んだのに・・・」
といったところでしょう。


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さて、森田自身なら、どういうでしょうか。

うつ的な患者に語った言葉が残っています。

「僕も、ときどき心が滅入って、何をするのも嫌になることがあります。
 そんなときには、ひとりトランプの札をならべたりして、
 時間をつぶしています。しかし、そんな場合でも、
 大事な用事だけは、いやいやながらかたづけます。
 そうしているうち、いつのまにか心は転換して、また
 元気が出てくるのです」

  (「人生晴れたり曇ったり」水谷啓二著 春萌社)



むしろ人情にしたがって、自然にふるまっている様子がつたわります。

何もしたくなくてトランプをいじるのも、
大事な用事があるからしかたなくいやいややるのも、
むしろ人情に忠実である結果であることが
見えてこないでしょうか。


「人情ながら本物ではない」などと
脅しをかける指導との違いを、よく味わって欲しいです。


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