要するに自分いじめ
神経症をすっごく簡単に定義すると。
自分の心に素直じゃない。
ということです。
いや、これだけだとちょっとたりないかもしれない。
自分の心に素直じゃなく、ケチをつけて、いじめる
こっちのが、いいや。
いじめられるので、もともとの心は苦しいし、
もともとの心は「もともと」という以上、なくなりはしない。
なくならないので、ますます、なくそうとして、いじめる。
延々と続く、自分いじめ(葛藤)の状態が
神経症なのです。
なので、
この自分いじめがなくなることが、神経症の治癒の条件です。
これが満たされない治療では、神経症はなおらない。
たとえば
治療者への崇拝
→これで別に自分いじめはなくなりません。
行動にはげむ。今まで通り普通の生活を送る
→だめでしょ!
今まで通りだったら自分いじめの構造はなくならないでしょ?
自分を振り返らないくらい、忙しい行動にはげむ。
→ある意味自分いじめを忘れるかもしれません。
でも意識的に自分いじめをやめてるわけではない。
自分いじめはいけない、ということをしらないので、
ひまなとき、つかれたとき、またぶりかえすでしょう。
自分を振り返らないほど忙しい生活をずーっと続けるのも不合理です。
自分いじめは習慣化して、反射的に起こるので、
意識的にいじめに反対していく必要があります。
また、忙しい生活、不断の外向き生活というのも
悪くはないが、そんなワーカホリックな生活そのものが
自分いじめだということもある。
自分の心いじめは止んだが、今度は自分の体をいじめることになって
身体的病気になる、とうのもいただけない。
それよりなにより、
これの一番の問題点は。
自分を忘れるくらいいそがしくなれば神経症は治る
といわれて忙しくする場合、
絶対に自分をわすれることにはならない。
ということで、
最初から無理がある、ミッションインポッシブルな方法である点だ。
構造として不可能性をふくんでいる。
遠回りで、無駄です。
ある意味自分いじめを壮大、拡大化 にしてしまう様子がある。
つぎいってみよう
不安のほったらかし。
心に手を出さない。
60%主義
心をコントロールするな
というモットーをつくりだす。
これは、神経症を治そうとする人が、とてもよくやってしまうし、
アドバイスでもこう言うのが多いのですが・・・
→とうぜん、だめです
不安を何とかしたい、心をスッキリしたい、
完璧でありたい、
という神経症者の本音を、自分でいじめている
自分いじめ、そのものでしょ。
ある意味、みんな
この不可能なキャッチフレーズを森田療法だと思ってて、
それでうまくいかなくて(当然にも!)悩んでるんでしょう!
これと似ていますが、「自己概念化をするな」
というのがあります。
自己概念化しなければ、たしかに
自分いじめは成り立たないのですが。
それ以前に、
→するな、といっても普通にわれわれは自己概念化しています。
というか、その状態しか我々は知らないのが普通です。
なので、
「心はほったらかしだ」→「できない!」→「しろ!」=
自分いじめになってしまうのと同じように、
「自己概念化」などと、いくら正しくても、
できはしないことをしようとして、
森田療法のまさに不可能の努力、自分いじめをしてしまうことに
なります。
できもしない「自己概念化からの脱却」にはげむのは自分いじめです。
コトバを知らない猿だの犬だのに学べがいい、などといいますが
人間はもはやコトバを知らない動物には戻れません。
そういわれて、せいぜい「猿になろう」「イヌに学ぼう」
とコトバで考えるのが関の山。
どこまでいってもコトバの世界から逃げられないのです。
その事実をもとに治療を考えるほうが実際的です。
(実際は幻想だとしても)人間には自己意識をリアルに感じる
事実というものがあります。
その事実に無理に逆らわないように。
そんなことしなくても、普通の森田療法で、神経症は治ります。
こういうと、
自分でどう思おうと、すでに自己というものは もともとない、
すでに救われているのだ、
なんも問題ない、普通に生活すればいい、
とまでいいだしかねないのでしょう。
いうまでもないが、
それができないから神経症なのです。
事実を見てください事実を、といいたくなります
真に受けてそれをつづければ、
単に無理して普通に生活をおくっているだけの事になります。
それができたり、できなかったりをくりかえします。
これも自分いじめです
禅的森田療法を知って、結局はああだこうだと論争したり
質問したりの段階をぬけられない人ばかりな事実をよくみてください。
自分の心に素直じゃない。
ということです。
いや、これだけだとちょっとたりないかもしれない。
自分の心に素直じゃなく、ケチをつけて、いじめる
こっちのが、いいや。
いじめられるので、もともとの心は苦しいし、
もともとの心は「もともと」という以上、なくなりはしない。
なくならないので、ますます、なくそうとして、いじめる。
延々と続く、自分いじめ(葛藤)の状態が
神経症なのです。
なので、
この自分いじめがなくなることが、神経症の治癒の条件です。
これが満たされない治療では、神経症はなおらない。
たとえば
治療者への崇拝
→これで別に自分いじめはなくなりません。
行動にはげむ。今まで通り普通の生活を送る
→だめでしょ!
今まで通りだったら自分いじめの構造はなくならないでしょ?
自分を振り返らないくらい、忙しい行動にはげむ。
→ある意味自分いじめを忘れるかもしれません。
でも意識的に自分いじめをやめてるわけではない。
自分いじめはいけない、ということをしらないので、
ひまなとき、つかれたとき、またぶりかえすでしょう。
自分を振り返らないほど忙しい生活をずーっと続けるのも不合理です。
自分いじめは習慣化して、反射的に起こるので、
意識的にいじめに反対していく必要があります。
また、忙しい生活、不断の外向き生活というのも
悪くはないが、そんなワーカホリックな生活そのものが
自分いじめだということもある。
自分の心いじめは止んだが、今度は自分の体をいじめることになって
身体的病気になる、とうのもいただけない。
それよりなにより、
これの一番の問題点は。
自分を忘れるくらいいそがしくなれば神経症は治る
といわれて忙しくする場合、
絶対に自分をわすれることにはならない。
ということで、
最初から無理がある、ミッションインポッシブルな方法である点だ。
構造として不可能性をふくんでいる。
遠回りで、無駄です。
ある意味自分いじめを壮大、拡大化 にしてしまう様子がある。
つぎいってみよう
不安のほったらかし。
心に手を出さない。
60%主義
心をコントロールするな
というモットーをつくりだす。
これは、神経症を治そうとする人が、とてもよくやってしまうし、
アドバイスでもこう言うのが多いのですが・・・
→とうぜん、だめです
不安を何とかしたい、心をスッキリしたい、
完璧でありたい、
という神経症者の本音を、自分でいじめている
自分いじめ、そのものでしょ。
ある意味、みんな
この不可能なキャッチフレーズを森田療法だと思ってて、
それでうまくいかなくて(当然にも!)悩んでるんでしょう!
これと似ていますが、「自己概念化をするな」
というのがあります。
自己概念化しなければ、たしかに
自分いじめは成り立たないのですが。
それ以前に、
→するな、といっても普通にわれわれは自己概念化しています。
というか、その状態しか我々は知らないのが普通です。
なので、
「心はほったらかしだ」→「できない!」→「しろ!」=
自分いじめになってしまうのと同じように、
「自己概念化」などと、いくら正しくても、
できはしないことをしようとして、
森田療法のまさに不可能の努力、自分いじめをしてしまうことに
なります。
できもしない「自己概念化からの脱却」にはげむのは自分いじめです。
コトバを知らない猿だの犬だのに学べがいい、などといいますが
人間はもはやコトバを知らない動物には戻れません。
そういわれて、せいぜい「猿になろう」「イヌに学ぼう」
とコトバで考えるのが関の山。
どこまでいってもコトバの世界から逃げられないのです。
その事実をもとに治療を考えるほうが実際的です。
(実際は幻想だとしても)人間には自己意識をリアルに感じる
事実というものがあります。
その事実に無理に逆らわないように。
そんなことしなくても、普通の森田療法で、神経症は治ります。
こういうと、
自分でどう思おうと、すでに自己というものは もともとない、
すでに救われているのだ、
なんも問題ない、普通に生活すればいい、
とまでいいだしかねないのでしょう。
いうまでもないが、
それができないから神経症なのです。
事実を見てください事実を、といいたくなります
真に受けてそれをつづければ、
単に無理して普通に生活をおくっているだけの事になります。
それができたり、できなかったりをくりかえします。
これも自分いじめです
禅的森田療法を知って、結局はああだこうだと論争したり
質問したりの段階をぬけられない人ばかりな事実をよくみてください。
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