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「それができないからここに来たのだ」

「不安のままに、 日常に手をつけてごらんなさい」

というアドバイスに対して。

「それができないからこちらに来たのだ」
という患者がいたそうです。

そして、これは当然の答えです。
完璧に正しい。

神経症って、そういう状態です。


日常生活に手をつけたり、やりたいこと、やらなくてはならないこと、
に気が向く状態ではない。

まだ、そういう「我」が育っていないのです。




育っていないところに治療者のカリスマ性にしたがって、
あるいは森田療法という権威にしたがって、
がんばっても、長続きしないだけです。
問題を大きくするだけです。


それがどんな状態になるのか、

ネット上をみれば散見しますし、ご自身の体験として
知っている人も多いでしょう。

その状態をよく記録している本もあります。
今度ご紹介しようと思います。



とにかく、治療として、「目の前に手を出す」と
いわれれば
「手を出さなきゃ」になってしまう。(強迫、神経症の上塗り)

実はこれで治るレベルもあるから厄介なのですが。
まず、今そういう人は少ない。

しかし、とりあえず手を出してみる、ということで、
自分がその気がなくても、やってみる。
これが突破口のひとつである可能性はあります。


厄介なのは、
自分でその気がない、という点です。
やりたくない、不安がある、という点です。


それでも、手を出すことによって、治ることもあり、
神経症を強めていくこともあります。

それが厄介なのです。
この違いはどこからくるのでしょうか?



その気がない行為、といっても、
本当は自分の進みたい方向、生活の充実に
つながることが必須条件です。

ということは、
どちらに進みたいのか、生活をどうしたいのか、
本人が知っているということですね。

感覚として実感なくても、頭でだけでも、
そっちに進んだほうがいいと、理解できることが重要です。


本人がまるでその気のないことを、
治療者の指導、つまり外部の声にしたがって、
しぶしぶ、あるいは積極的に行う、
というと、
何度も申し上げている、マチガイにおちいる危険があるわけです。



治療者のいない状態で、
ひとりで森田的に神経症を治そうとする場合には、
手を出したくないとしか思えない状態の時には、手を出さないで、むしろ
その「やりたくなさ」を肯定的に
味わっていることから始めるのが無難でしょう。

そのうち、
「やりたくない」のだけど、日常のささいなことから
生活してみようか、手を出してみようか、と
「自分で思える」状態になっていくものです。

自然な気持ちのままにいることによって、
「大変そうだけれど、怖いけれど、やってみたい。
やりたくないけど、手を出してみよう」と、

「自分が」「自然に」感じられるようになります。

そのときになってはじめて、
いわゆる森田の「不安なままに手をつける」を
身につけていってもいいと思います。

というかそれ以外は不自然さを免れないのではないでしょうか?


つまり、
「やりたくない、手をつけたくない」
という点はおなじであるにせよ、
 
「それでも手を出してみよう」
 
ということに、
本人が賛同できるか、納得出来るか、
それとも賛同できないかの違いです。



よーするに
「やりたくないままに手を出す」を、
やってもいいと思えるか、やりたくないと思うかの違いです。



そうして
「やりたくないままに手を出す」を
やりたくない場合、
すなわち
「それでも手を出してみよう」に賛同できかねる場合、

もちろんそのままでかまいません。
むしろ、そのままでいる方が大事です。
やりたくない、自分を否定する必要はありません。

森田療法はどこまでも素直、どんな気持ちでも
きちんと事実として認めることが第一です。
「素直であれ」「人情に帰れ」ということです。

ことさら自分の気持を飾り立てないでください。




今までの森田療法家には、
やりたくないままに手を出す、に賛同できない状態の人にも、
「やりたくないままにやれ」の一点張りで押してきました。

当然、無理が生じます。

それが多くの森田療法での迷える患者を産み出してきたのです。
今の自分の気持を否定し、抑圧し、さらに
苦しむようになってしまったのです。
迷いがないタイプは、今度はゴリゴリの原理主義者、教条主義者になります。


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