自分のものとしての現実感覚(理知)
現実感覚が自分のものとして、つまり我の発揮として
機能している場合、
森田療法実践者にありがちな弊害からも
のがれることができます。
たとえば日常生活の些事を森田療法では重視するのですが・・・
それはたしかにそうですし、神経症から抜け出すきっかけとしては
悪くない見方です。
しかし
些事ばっかりやっていて、その人に取っての肝心な用事を
やらないでいる、という人がよくあります。
日常生活の些事に埋没してしまうことがあります。
鈴木知準さんが
「ここではやるべきことにみちています」と言っていたのを
思い出しますが、たしかに、人の生活は用事に満ちたものではあります。
なにかしら細かいことがいっぱいある。
でも目先の些事をとりあえずこなして、一日体を動かして
満足してしまう人がいるのです。特に森田療法実践者の中に。
しかしただベンベンと、目先の用事だけこなすのが人生ではないはず。
掃除も爪切りも大切かもしれません。
でもその人それぞれ、もっと大切なものがあるのではないでしょうか?
人それぞれで価値がちがいますので、
あえて仕事や勉強がそれだとはいいません。
それはあるいは世間の価値観を取り込んだだけかもしれませんから。
しかし、自分の欲望をはっきり見定めて、自分のものとしての
現実感覚がはたらきだすことで、
余計な些事に埋没することはなくなります。
些事は些事で、やりたいまま、やらなくてはいけないという気持ちのまま、
もっと肝心なことの方、自分から産まれた欲望の方に向かうことができます。
これが森田療法の「我の発揮」であることのありがたさです。
自分から産まれた現実感覚のありがたさです。
自分の人生、自分だけの人生から、逸れずにすむ。
オリジナルな人生を歩むことの助けになるのです。
ある掃除ばかりに熱心なお坊さんが、お釈迦様(だったか?)に
諭されて、掃除はいいかげんにして、修行の方を優先させるように
なったというエピソードを読んだことがあります。
また、「あちらこちら命がけ」の言葉をのこした、坂口安吾は、
汚い部屋で原稿用紙に向かう写真が残っています。
これらの人々は、自分としての現実感覚がはっきりしていた
例だと思います。
鈴木先生は、講話で、近所の役所の鉢植えが水をやらずに
枯れさしてある、といって、こういうことに眼がいかないようでは
ダメです。神経質はもっと、細かいことに気を配らなくては
いけない。とご不興だったことがありますが、
まあ、そういう場合もあるでしょう。
ただ、そういうとこだけしっかりして、役所の機能が
だめだったらもっと困ります。
役所としてしっかりしていれば、なにもとりあげて話題にするような、
目くじらたてるほどのことではない、というのもひとつの見方だと
思います。
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理知(現実感覚)がヨワイ
電車で満席の時、座りたいけど事情が許さないので残念ながら立っている
座りたい!(事実)
座れない!(事実)
残念だ!(事実)
これが森田療法で、だれでもやっていることなのですが、
神経症となると、これができないわけです。
まず、座りたい、という素直な気持ちを否定する。
そして、工夫をこらす。
「人生思い通りにいかない」とか「電車に乗れただけで
感謝せよ」とか「要求水準を低くしていればいつも安心だ」とか
もうひとつ。
神経症の人は、この例でいえば、残念なまま立っていることができず、
しばしば、人が座っているところを
無理やり坐るようなことをしてしまいます。
いわゆる、症状まっさかり状態ですね。
実は、座りたい、という気持ちを否定するから、
ますます、「座りたい」に逆らえなくなって、
実際に座ってしまうのですが、
ともかく、
神経症になると、無理やり満席にわりこむとやばいことになる、
という現実感覚がはたらかなくなるのです。
不潔恐怖で言えば、手を洗いたいけど、否定して、
それがアダとなって、かえって洗いたくなる。
で、現実を無視して洗ってしまう。
電車恐怖なら、電車が怖いけど、しかたがないので、
乗るしかない、という風にできなくなり、実際怖すぎて乗れなくなってしまう。
つまり、神経症で苦しむ人は、現実感覚が弱い。
神経症もある程度までいくと、現実感覚が働かなくなっている。
別の言葉でいうと、モリタのいう「理知」です。理知の面が非常に弱い。
そうなれば、あとは「洗いたい」だの「怖い」だのに振り回され、
言いなりとなって症状にまみれる毎日です。
なので、こうした状況には、
弱くて感じられない現実感覚を強めていくことが
必要になります。
ここで注意していただきたいのは、
この現実感覚は、あくまで、自分の物、自分から出た、
自分がそうしたい、という希望、欲望である必要があります。
なので、単に強制的に強めるものではなく、無理に縛るものではなく、
原則的には、自分の内部から湧き出るものです。
というわけで、この現実感覚は、他人や社会からのものを自分に
合わせるというよりは、
「自分のものとして育てていく」
というものである必要があります。
電車が怖いけど、それをなんとかしてでもやりたいこと、
行きたいところ、が、自分の欲望としてあることが条件です。
でないと、電車の怖さにたちうちできません。
森田も、理知と感情の調和は、あくまで、我の発揮といってます。
トイレ掃除の記事であったように、
義務でなく、自然に「綺麗にしたい」と感じることによって、
「汚い嫌な気持ちがありながらも、綺麗にしようという行動が出てくるのです。
決して、「必要だから掃除するのだ」と頭ごなしに
いっているのではないことに注意してください。
神経症の人がやるマチガイは、この自分の弱くなった現実感覚、
理知的行動をそだてることをしないで、
拙速に、それと似て異なる
義務感覚、モットーに基づいて、症状にふりまわされるのを
やめようと頑張る点です。
いわゆる「なすべきをなす」です。
自分で本気でそうしたい理由がないのに、「なすべきをなせ」
という他人の声から出発するから、まず挫折します。
結局手をあらってしまう。電車にのらないですます。
そして症状にふりまわされた自分を自己嫌悪し、
さらに頑張って同じことを繰り返し、くたびれていきます。
これだけはやめたほうがいいと思います。
第一歩は、自分の欲望が動き出すまで、もっとまつことです。
それには、まず自分の中の感情をよく味わってみる。
なにが気持いいのか、楽しいのか、キライなのか、
自己点検が必要なのです。
自分で自分をみることはできない、というのはウソです。
というか、それはまったく次元の違う話で、それを
持ち出しても、神経症がよくなることには関係がありません
混乱はしますが。
自覚が必要です。
感情の世界にすこし目を向けてみることが第一歩となると思います。
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