要するに自分いじめ
神経症をすっごく簡単に定義すると。
自分の心に素直じゃない。
ということです。
いや、これだけだとちょっとたりないかもしれない。
自分の心に素直じゃなく、ケチをつけて、いじめる
こっちのが、いいや。
いじめられるので、もともとの心は苦しいし、
もともとの心は「もともと」という以上、なくなりはしない。
なくならないので、ますます、なくそうとして、いじめる。
延々と続く、自分いじめ(葛藤)の状態が
神経症なのです。
なので、
この自分いじめがなくなることが、神経症の治癒の条件です。
これが満たされない治療では、神経症はなおらない。
たとえば
治療者への崇拝
→これで別に自分いじめはなくなりません。
行動にはげむ。今まで通り普通の生活を送る
→だめでしょ!
今まで通りだったら自分いじめの構造はなくならないでしょ?
自分を振り返らないくらい、忙しい行動にはげむ。
→ある意味自分いじめを忘れるかもしれません。
でも意識的に自分いじめをやめてるわけではない。
自分いじめはいけない、ということをしらないので、
ひまなとき、つかれたとき、またぶりかえすでしょう。
自分を振り返らないほど忙しい生活をずーっと続けるのも不合理です。
自分いじめは習慣化して、反射的に起こるので、
意識的にいじめに反対していく必要があります。
また、忙しい生活、不断の外向き生活というのも
悪くはないが、そんなワーカホリックな生活そのものが
自分いじめだということもある。
自分の心いじめは止んだが、今度は自分の体をいじめることになって
身体的病気になる、とうのもいただけない。
それよりなにより、
これの一番の問題点は。
自分を忘れるくらいいそがしくなれば神経症は治る
といわれて忙しくする場合、
絶対に自分をわすれることにはならない。
ということで、
最初から無理がある、ミッションインポッシブルな方法である点だ。
構造として不可能性をふくんでいる。
遠回りで、無駄です。
ある意味自分いじめを壮大、拡大化 にしてしまう様子がある。
つぎいってみよう
不安のほったらかし。
心に手を出さない。
60%主義
心をコントロールするな
というモットーをつくりだす。
これは、神経症を治そうとする人が、とてもよくやってしまうし、
アドバイスでもこう言うのが多いのですが・・・
→とうぜん、だめです
不安を何とかしたい、心をスッキリしたい、
完璧でありたい、
という神経症者の本音を、自分でいじめている
自分いじめ、そのものでしょ。
ある意味、みんな
この不可能なキャッチフレーズを森田療法だと思ってて、
それでうまくいかなくて(当然にも!)悩んでるんでしょう!
これと似ていますが、「自己概念化をするな」
というのがあります。
自己概念化しなければ、たしかに
自分いじめは成り立たないのですが。
それ以前に、
→するな、といっても普通にわれわれは自己概念化しています。
というか、その状態しか我々は知らないのが普通です。
なので、
「心はほったらかしだ」→「できない!」→「しろ!」=
自分いじめになってしまうのと同じように、
「自己概念化」などと、いくら正しくても、
できはしないことをしようとして、
森田療法のまさに不可能の努力、自分いじめをしてしまうことに
なります。
できもしない「自己概念化からの脱却」にはげむのは自分いじめです。
コトバを知らない猿だの犬だのに学べがいい、などといいますが
人間はもはやコトバを知らない動物には戻れません。
そういわれて、せいぜい「猿になろう」「イヌに学ぼう」
とコトバで考えるのが関の山。
どこまでいってもコトバの世界から逃げられないのです。
その事実をもとに治療を考えるほうが実際的です。
(実際は幻想だとしても)人間には自己意識をリアルに感じる
事実というものがあります。
その事実に無理に逆らわないように。
そんなことしなくても、普通の森田療法で、神経症は治ります。
こういうと、
自分でどう思おうと、すでに自己というものは もともとない、
すでに救われているのだ、
なんも問題ない、普通に生活すればいい、
とまでいいだしかねないのでしょう。
いうまでもないが、
それができないから神経症なのです。
事実を見てください事実を、といいたくなります
真に受けてそれをつづければ、
単に無理して普通に生活をおくっているだけの事になります。
それができたり、できなかったりをくりかえします。
これも自分いじめです
禅的森田療法を知って、結局はああだこうだと論争したり
質問したりの段階をぬけられない人ばかりな事実をよくみてください。
自分の心に素直じゃない。
ということです。
いや、これだけだとちょっとたりないかもしれない。
自分の心に素直じゃなく、ケチをつけて、いじめる
こっちのが、いいや。
いじめられるので、もともとの心は苦しいし、
もともとの心は「もともと」という以上、なくなりはしない。
なくならないので、ますます、なくそうとして、いじめる。
延々と続く、自分いじめ(葛藤)の状態が
神経症なのです。
なので、
この自分いじめがなくなることが、神経症の治癒の条件です。
これが満たされない治療では、神経症はなおらない。
たとえば
治療者への崇拝
→これで別に自分いじめはなくなりません。
行動にはげむ。今まで通り普通の生活を送る
→だめでしょ!
今まで通りだったら自分いじめの構造はなくならないでしょ?
自分を振り返らないくらい、忙しい行動にはげむ。
→ある意味自分いじめを忘れるかもしれません。
でも意識的に自分いじめをやめてるわけではない。
自分いじめはいけない、ということをしらないので、
ひまなとき、つかれたとき、またぶりかえすでしょう。
自分を振り返らないほど忙しい生活をずーっと続けるのも不合理です。
自分いじめは習慣化して、反射的に起こるので、
意識的にいじめに反対していく必要があります。
また、忙しい生活、不断の外向き生活というのも
悪くはないが、そんなワーカホリックな生活そのものが
自分いじめだということもある。
自分の心いじめは止んだが、今度は自分の体をいじめることになって
身体的病気になる、とうのもいただけない。
それよりなにより、
これの一番の問題点は。
自分を忘れるくらいいそがしくなれば神経症は治る
といわれて忙しくする場合、
絶対に自分をわすれることにはならない。
ということで、
最初から無理がある、ミッションインポッシブルな方法である点だ。
構造として不可能性をふくんでいる。
遠回りで、無駄です。
ある意味自分いじめを壮大、拡大化 にしてしまう様子がある。
つぎいってみよう
不安のほったらかし。
心に手を出さない。
60%主義
心をコントロールするな
というモットーをつくりだす。
これは、神経症を治そうとする人が、とてもよくやってしまうし、
アドバイスでもこう言うのが多いのですが・・・
→とうぜん、だめです
不安を何とかしたい、心をスッキリしたい、
完璧でありたい、
という神経症者の本音を、自分でいじめている
自分いじめ、そのものでしょ。
ある意味、みんな
この不可能なキャッチフレーズを森田療法だと思ってて、
それでうまくいかなくて(当然にも!)悩んでるんでしょう!
これと似ていますが、「自己概念化をするな」
というのがあります。
自己概念化しなければ、たしかに
自分いじめは成り立たないのですが。
それ以前に、
→するな、といっても普通にわれわれは自己概念化しています。
というか、その状態しか我々は知らないのが普通です。
なので、
「心はほったらかしだ」→「できない!」→「しろ!」=
自分いじめになってしまうのと同じように、
「自己概念化」などと、いくら正しくても、
できはしないことをしようとして、
森田療法のまさに不可能の努力、自分いじめをしてしまうことに
なります。
できもしない「自己概念化からの脱却」にはげむのは自分いじめです。
コトバを知らない猿だの犬だのに学べがいい、などといいますが
人間はもはやコトバを知らない動物には戻れません。
そういわれて、せいぜい「猿になろう」「イヌに学ぼう」
とコトバで考えるのが関の山。
どこまでいってもコトバの世界から逃げられないのです。
その事実をもとに治療を考えるほうが実際的です。
(実際は幻想だとしても)人間には自己意識をリアルに感じる
事実というものがあります。
その事実に無理に逆らわないように。
そんなことしなくても、普通の森田療法で、神経症は治ります。
こういうと、
自分でどう思おうと、すでに自己というものは もともとない、
すでに救われているのだ、
なんも問題ない、普通に生活すればいい、
とまでいいだしかねないのでしょう。
いうまでもないが、
それができないから神経症なのです。
事実を見てください事実を、といいたくなります
真に受けてそれをつづければ、
単に無理して普通に生活をおくっているだけの事になります。
それができたり、できなかったりをくりかえします。
これも自分いじめです
禅的森田療法を知って、結局はああだこうだと論争したり
質問したりの段階をぬけられない人ばかりな事実をよくみてください。
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ムダに悩ませる人(不都合な真実 3)
森田の好んだ川柳?に
「幽霊の正体見たり枯尾花」というのがあります。
きちんとみて、枯尾花とわかったからこそ、怖がらなくなれる。
当たり前の道筋を通ります。禅も森田療法も。
ただし宇佐療法、禅的森田療法においては
これは枯尾花なので相手にする必要はない。
いちいち見ないで夜道を通りなさい。
という形を取る。
枯尾花であることをしっているのは指導者だけなんで、
患者は指導者を信用するしかない。しかしこわいし、つづかない。
実は自分自身でたしかめていないからね。
通り抜けること自体無理がある。
こわいのに、元気いっぱい通り抜けるなんて、だいぶ世間離れしている。
普通の人ならまずそんなことはしない。
結局勢いがいいのは最初だけで、どうしても通れなくなります。
怖いもんね。それがほんとだよ。
また、そのように禅の用語を使いながらきっぱりと指導する
指導者を頼もしく思え、崇拝する副作用もある。
信じてるからやめるのも難しいが、やるのも怖い。
こういう状態が数年つづくという。。。。
つまりまとめますと、
実体があって、連続した自我がある、というのが
見性をしていないわれわれの普通の感覚なのです。
(「記憶」というものに脳が騙されているのです)
「オレはいる」という感覚を事実とみなすし、
「つらい」「こわい」という思いを実体として取り扱います。
この、自然のままの「事実」にしたがえばいいので、
それを
あえて、「本当の事実ではない」と、ムズカシくしてしまう必要はありません
実感のない、禅の真理にしたがう必要はないのです。
どうしてもしたがいたいのなら、普通の生活より、坐禅のほうがはるかに近道です。
たしかに
「空」その他は真実、事実だとしても
普通の私やあなたには、これは「他人の事実」で、関係がない。
自分がない、なんて、「実感」がないでしょ?
そうした凡人のための方法が森田療法です。
凡人対応だからこそ、医学としてひろまったのです。
簡単、誰でもできる。
満員電車で「座りたい!」「座れない!」「残念!」
これだけですからね。
「虚構だ」などと、禅の事実「法」を語るその本人だって、
本を読めばその程度の、聞いた風はことをいえるので、信用ならないでしょう。
あるサイトで見性体験をきかれたがはっきりとは答えませんでしたね。。
もともと悟っているなどといいながら・・
それに実感の持てない「事実」をしめされて、
悩みをひとつ増やした神経症者をみて、気の毒におもえないのでしょうか。
実感のないことに自分が歩み寄ると苦しむハメになる
これも思想の矛盾、
ということで
森田療法と言いながら、神経症の繰り返しになるものに
だまされませんよう・・・・
ということで、
「事実」はなにか、という検証をおこないました。
「幽霊の正体見たり枯尾花」というのがあります。
きちんとみて、枯尾花とわかったからこそ、怖がらなくなれる。
当たり前の道筋を通ります。禅も森田療法も。
ただし宇佐療法、禅的森田療法においては
これは枯尾花なので相手にする必要はない。
いちいち見ないで夜道を通りなさい。
という形を取る。
枯尾花であることをしっているのは指導者だけなんで、
患者は指導者を信用するしかない。しかしこわいし、つづかない。
実は自分自身でたしかめていないからね。
通り抜けること自体無理がある。
こわいのに、元気いっぱい通り抜けるなんて、だいぶ世間離れしている。
普通の人ならまずそんなことはしない。
結局勢いがいいのは最初だけで、どうしても通れなくなります。
怖いもんね。それがほんとだよ。
また、そのように禅の用語を使いながらきっぱりと指導する
指導者を頼もしく思え、崇拝する副作用もある。
信じてるからやめるのも難しいが、やるのも怖い。
こういう状態が数年つづくという。。。。
つまりまとめますと、
実体があって、連続した自我がある、というのが
見性をしていないわれわれの普通の感覚なのです。
(「記憶」というものに脳が騙されているのです)
「オレはいる」という感覚を事実とみなすし、
「つらい」「こわい」という思いを実体として取り扱います。
この、自然のままの「事実」にしたがえばいいので、
それを
あえて、「本当の事実ではない」と、ムズカシくしてしまう必要はありません
実感のない、禅の真理にしたがう必要はないのです。
どうしてもしたがいたいのなら、普通の生活より、坐禅のほうがはるかに近道です。
たしかに
「空」その他は真実、事実だとしても
普通の私やあなたには、これは「他人の事実」で、関係がない。
自分がない、なんて、「実感」がないでしょ?
そうした凡人のための方法が森田療法です。
凡人対応だからこそ、医学としてひろまったのです。
簡単、誰でもできる。
満員電車で「座りたい!」「座れない!」「残念!」
これだけですからね。
「虚構だ」などと、禅の事実「法」を語るその本人だって、
本を読めばその程度の、聞いた風はことをいえるので、信用ならないでしょう。
あるサイトで見性体験をきかれたがはっきりとは答えませんでしたね。。
もともと悟っているなどといいながら・・
それに実感の持てない「事実」をしめされて、
悩みをひとつ増やした神経症者をみて、気の毒におもえないのでしょうか。
実感のないことに自分が歩み寄ると苦しむハメになる
これも思想の矛盾、
ということで
森田療法と言いながら、神経症の繰り返しになるものに
だまされませんよう・・・・
ということで、
「事実」はなにか、という検証をおこないました。
不都合な真実2
仏教では、真理というものに
「勝義諦」というものと「世俗諦」という区別があるそうです。
勝義諦というのは、人間の常識を越えた真理、世俗諦というのは
人間世界の中で通ずる、人間の創り上げた共通了解事項、といった
ものかとおもいます。
いわゆる常識でしょうか。
(門外漢としての自分の理解です)
勝義諦として、いわゆる因果の法とか縁起というものがあり、
ものごとはすべて固定した実体はない、全ては因縁によって
なりたつ、その場限りの物、無常である。
ということがあるようです。
この真理に触れた釈尊は、これはとても
自分以外の人間が理解するのはむずかしいだろう、と
はじめ布教に乗り気でなかったというエピソードがあります。
しかし、仏教はこの真理に触れるためのメソッドとして、
出家、坐禅などの修行のシステムをつくりだしました。
つまり、
これらのことは、
普通の人が、普通に生活していては、
理解しがたいものだということができます。
出家や坐禅などは、
世間の常識とははずれた行為です。
いってみれば、宇佐療法が勧める「ただちに実生活」
とは真逆のことをあえてしなければ、
これらの真理は得ることができない。
しかしこれらの修行で
「たしかに執着すべき自我などというものはない」と
体得すれば、
悩みなど消えるのは当然。
自己を対象としてとらえたりしない、自己概念化しない
ということも自然にできるでしょう。
つまり、宇佐療法のいうことも
普通の人間の理解を越えた事実だとは言えるわけです。
しかし、事実は事実でも、
一般の理解を越えた事実をもとにした、ありかたを
いきなり勧める。
一般人でも出家などしてやっと分かるような真理を、
いわば無茶ぶりして、できないとダメ出しをしています。
そこでみな、いつまでも混乱することになる。
さて、森田療法は
事実といっても、そこまで徹底していません。
万人の実感できる事実に基づいています。
だからこそ、誰でもすぐできる。
自分というものは縁によってそのときそのときにしか
存在しない、といっても
脳に記憶という機能があるため、いかにも「オレ」という
実体があり、性格、不安などといったものも
そのように実体のあるものとしてなりたってしまいます。
これが世界で共通のいわば世俗諦です。
森田療法はその実体をみとめ、それにもとづいて
解決を図ります。
不安、恐怖という実体をみとめ、それが厳然と「ある」とみなします。
その「ある」というところから出発し、解決を図る森田療法。
禅ではさらにつきつめ、「実はない」というところまで見出して、
いうなればもっと徹底した解決を図ります。
しかしどちらも進む段取りに無理がない。自然な進み方です。
ここが宇佐療法とは違います。
「勝義諦」というものと「世俗諦」という区別があるそうです。
勝義諦というのは、人間の常識を越えた真理、世俗諦というのは
人間世界の中で通ずる、人間の創り上げた共通了解事項、といった
ものかとおもいます。
いわゆる常識でしょうか。
(門外漢としての自分の理解です)
勝義諦として、いわゆる因果の法とか縁起というものがあり、
ものごとはすべて固定した実体はない、全ては因縁によって
なりたつ、その場限りの物、無常である。
ということがあるようです。
この真理に触れた釈尊は、これはとても
自分以外の人間が理解するのはむずかしいだろう、と
はじめ布教に乗り気でなかったというエピソードがあります。
しかし、仏教はこの真理に触れるためのメソッドとして、
出家、坐禅などの修行のシステムをつくりだしました。
つまり、
これらのことは、
普通の人が、普通に生活していては、
理解しがたいものだということができます。
出家や坐禅などは、
世間の常識とははずれた行為です。
いってみれば、宇佐療法が勧める「ただちに実生活」
とは真逆のことをあえてしなければ、
これらの真理は得ることができない。
しかしこれらの修行で
「たしかに執着すべき自我などというものはない」と
体得すれば、
悩みなど消えるのは当然。
自己を対象としてとらえたりしない、自己概念化しない
ということも自然にできるでしょう。
つまり、宇佐療法のいうことも
普通の人間の理解を越えた事実だとは言えるわけです。
しかし、事実は事実でも、
一般の理解を越えた事実をもとにした、ありかたを
いきなり勧める。
一般人でも出家などしてやっと分かるような真理を、
いわば無茶ぶりして、できないとダメ出しをしています。
そこでみな、いつまでも混乱することになる。
さて、森田療法は
事実といっても、そこまで徹底していません。
万人の実感できる事実に基づいています。
だからこそ、誰でもすぐできる。
自分というものは縁によってそのときそのときにしか
存在しない、といっても
脳に記憶という機能があるため、いかにも「オレ」という
実体があり、性格、不安などといったものも
そのように実体のあるものとしてなりたってしまいます。
これが世界で共通のいわば世俗諦です。
森田療法はその実体をみとめ、それにもとづいて
解決を図ります。
不安、恐怖という実体をみとめ、それが厳然と「ある」とみなします。
その「ある」というところから出発し、解決を図る森田療法。
禅ではさらにつきつめ、「実はない」というところまで見出して、
いうなればもっと徹底した解決を図ります。
しかしどちらも進む段取りに無理がない。自然な進み方です。
ここが宇佐療法とは違います。
不都合な真実
「事実」をみきわめることはむずかしい。
「不安を受け入れよう」「神経症をなおしたい、と思わないようにしよう」
「60%で充分と考えよう」
こうした「理想」を「事実」とおもいこみやすいことはのべました。
では、つぎのようなことはどうでしょう?
「自分というものはない」
「思いというものは実体はない」
「空」
「すべては縁によるその場限りのもの」
そう。これは禅的森田療法でよくいわれるコトバです。
これこそが「事実」だ!ジャジャ〜〜ン!
という感じで語られます。 ミトコーモンの印籠ですか。。
じゃーん!知らなかったでしょ?という感じで紹介していますね。
実体のない自分というものを認める
それが神経症の始まりだということらしいです。
つまり、ないはずのものを勝手に人は、ある、とおもっている。
「オレ」というものを勝手に創りだして苦しんでいる。
虚構と戦っている無駄な努力だそうです。
でも本当は、
「自分はない」のだから、「自分を概念化して、対象化するのはやめなさい」
そして、結局は「目の前の生活を始めなさい」ということになるらしいです。
森田療法は事実にしたがうのですから、
この「自分はない」という事実にしたがわなくてはいけないのでしょうか??
それにしては、そう言われた人たちは、かえって深い悩みの淵に
沈んでいってるような・・・・・
つまり「満員電車で座りたい!」「電車が怖い!」
「おれは他人が恐ろしい」「自分は怠けたがる性格だなあ}
こういう思いは、すべて虚構。無視してください、というわけです。
わたしなんかは、むしろこうした思いのある事実に自覚的で
いいことじゃん、と思いますが、
そう言われた人はみな、
この実感を「ほんとうは無いのだ」といわれて、とまどっているような・・・
実感としてあるものを、「虚構」だと無茶ぶりされることで皆とまどっている
ようにみえますが・・・
「座りたい」という実感に、「それは虚構なのだ」という指摘をうけたことで、
無価値化しようとする。でも打ち消せば打ち消すほど、なくならない・・・
ん?
どっかでみた構図のような・・・・
そしてさらに、目の前の生活に励んでいく。
う〜ん
「実感としてある想いを、虚構だとして打ち消して、直ちに目の前の生活に励め」かあ〜〜
このブログでの提案とは正反対です。
「実感としてある想いを現実として素直にみとめ、それを外界の現実とすりあわせていく」
(つまり、満員電車で「すわりたい!」「すわれない!」「残念!」)
はい。
大体わかってると思いますが、
こうした
禅の世界からの指摘は、
まったく無視してくださって結構です。
次回詳しく述べます。
「不安を受け入れよう」「神経症をなおしたい、と思わないようにしよう」
「60%で充分と考えよう」
こうした「理想」を「事実」とおもいこみやすいことはのべました。
では、つぎのようなことはどうでしょう?
「自分というものはない」
「思いというものは実体はない」
「空」
「すべては縁によるその場限りのもの」
そう。これは禅的森田療法でよくいわれるコトバです。
これこそが「事実」だ!ジャジャ〜〜ン!
という感じで語られます。 ミトコーモンの印籠ですか。。
じゃーん!知らなかったでしょ?という感じで紹介していますね。
実体のない自分というものを認める
それが神経症の始まりだということらしいです。
つまり、ないはずのものを勝手に人は、ある、とおもっている。
「オレ」というものを勝手に創りだして苦しんでいる。
虚構と戦っている無駄な努力だそうです。
でも本当は、
「自分はない」のだから、「自分を概念化して、対象化するのはやめなさい」
そして、結局は「目の前の生活を始めなさい」ということになるらしいです。
森田療法は事実にしたがうのですから、
この「自分はない」という事実にしたがわなくてはいけないのでしょうか??
それにしては、そう言われた人たちは、かえって深い悩みの淵に
沈んでいってるような・・・・・
つまり「満員電車で座りたい!」「電車が怖い!」
「おれは他人が恐ろしい」「自分は怠けたがる性格だなあ}
こういう思いは、すべて虚構。無視してください、というわけです。
わたしなんかは、むしろこうした思いのある事実に自覚的で
いいことじゃん、と思いますが、
そう言われた人はみな、
この実感を「ほんとうは無いのだ」といわれて、とまどっているような・・・
実感としてあるものを、「虚構」だと無茶ぶりされることで皆とまどっている
ようにみえますが・・・
「座りたい」という実感に、「それは虚構なのだ」という指摘をうけたことで、
無価値化しようとする。でも打ち消せば打ち消すほど、なくならない・・・
ん?
どっかでみた構図のような・・・・
そしてさらに、目の前の生活に励んでいく。
う〜ん
「実感としてある想いを、虚構だとして打ち消して、直ちに目の前の生活に励め」かあ〜〜
このブログでの提案とは正反対です。
「実感としてある想いを現実として素直にみとめ、それを外界の現実とすりあわせていく」
(つまり、満員電車で「すわりたい!」「すわれない!」「残念!」)
はい。
大体わかってると思いますが、
こうした
禅の世界からの指摘は、
まったく無視してくださって結構です。
次回詳しく述べます。
(たまには趣向を変えて)鈴木診療所の想い出
鈴木診療所に入院したのは、10代の終わりでした。
初めての診察なども、もちろん、今ではよく覚えていませんが
最初にわたしが
「強迫神経症で・・」
と言おうとするとそれをさえぎり、
「そのようにひとことでまとめないで、具体的になにでこまっているのか
述べなさい」
という意味のことを、それでもやさしい調子で鈴木医師は言いました。
診察室にはお香がたかれ、たしか自分の胸像がおかれていました。
待合室とのドアは開けられているので、いろいろ話すのがためらわれます。
やがて症状は医師の知るところとなり、
カルテに書きこみながら
「強迫行為ですねえ」
強迫行為ということで、過去の患者のいろいろな
ケースと関連付けられ、
入院させるのをしぶりだしました。
それは強迫行為の患者はよくトイレをつまらせるとか、
水道代がたまらんということからのようでした。
まあなんとか入院の許可をもらったわけですが、
面接の大部分はやがて鈴木自身の体験談となり、
私が埼玉県であることから、自分自身の浦和高校の
想い出とか、すでに自分の著作でもなんども語られている
神経症から森田との出会い、劇的な治癒、が語られます。
「それ以来、頭痛など一度も起こさん」
余談ですが、この人、ほんとに昔の日本の
立身出世主義、学歴主義が服を着て歩いているような人でした。
付き添いできた父は大学で教えていましたが、父の出身大学を聞くと
随分態度が変わったようでした。
しかし父は別に外見を取り繕わない方なので、
「大学に勤めてます」という父を見て
「最初大学の小使いさんかと思った」そうで、
しかもそれをたしか父に面と向かっていったように思います。
さて、自分の症状、たとえば排便のあと、使う紙の量が多い
ということなどをきくと、
「いや三回で充分だ」と断言しました。
断定口調はこの人を特徴付けるものです。
それにしても
「臨機応変にその場で変わる」とはいいませんでした。
もっともそんなことをいえば患者は恣意的に
気の済むまで拭くかもしれませんが。
しかし三回で充分、といわれればそれにとらわれることになります。
帰り道、中野坂上駅ちかくで父がポツリとひとこと
「三回じゃ無理だよ・・・」
このひとことがあったので、医師の処方にとらわれずにはすみましたが。
初めての診察なども、もちろん、今ではよく覚えていませんが
最初にわたしが
「強迫神経症で・・」
と言おうとするとそれをさえぎり、
「そのようにひとことでまとめないで、具体的になにでこまっているのか
述べなさい」
という意味のことを、それでもやさしい調子で鈴木医師は言いました。
診察室にはお香がたかれ、たしか自分の胸像がおかれていました。
待合室とのドアは開けられているので、いろいろ話すのがためらわれます。
やがて症状は医師の知るところとなり、
カルテに書きこみながら
「強迫行為ですねえ」
強迫行為ということで、過去の患者のいろいろな
ケースと関連付けられ、
入院させるのをしぶりだしました。
それは強迫行為の患者はよくトイレをつまらせるとか、
水道代がたまらんということからのようでした。
まあなんとか入院の許可をもらったわけですが、
面接の大部分はやがて鈴木自身の体験談となり、
私が埼玉県であることから、自分自身の浦和高校の
想い出とか、すでに自分の著作でもなんども語られている
神経症から森田との出会い、劇的な治癒、が語られます。
「それ以来、頭痛など一度も起こさん」
余談ですが、この人、ほんとに昔の日本の
立身出世主義、学歴主義が服を着て歩いているような人でした。
付き添いできた父は大学で教えていましたが、父の出身大学を聞くと
随分態度が変わったようでした。
しかし父は別に外見を取り繕わない方なので、
「大学に勤めてます」という父を見て
「最初大学の小使いさんかと思った」そうで、
しかもそれをたしか父に面と向かっていったように思います。
さて、自分の症状、たとえば排便のあと、使う紙の量が多い
ということなどをきくと、
「いや三回で充分だ」と断言しました。
断定口調はこの人を特徴付けるものです。
それにしても
「臨機応変にその場で変わる」とはいいませんでした。
もっともそんなことをいえば患者は恣意的に
気の済むまで拭くかもしれませんが。
しかし三回で充分、といわれればそれにとらわれることになります。
帰り道、中野坂上駅ちかくで父がポツリとひとこと
「三回じゃ無理だよ・・・」
このひとことがあったので、医師の処方にとらわれずにはすみましたが。
抗不安薬?いいねぇ
かつて高良先生は
「抗不安薬を補助として飲むことは、ちっとも悪いことではない」
という意味のことをいいました。
いっぽう「禅的森田療法」のある先生は
抗不安薬を売り込みにきた製薬会社の人に、
「不安でいてどこがいけませんか?」
といって相手の目を丸くさせたそうです。
森田療法として正しいのは高良先生です。
もちろん、そうでしょう。
不安はキライ、どこまでも何とかしたい、
というスナオな人情、我の発揮が森田療法のキモです。
不安がなんとかなるならなんとかしていいのです。
自分で自分の不安をなんとかすることはむずかしいですが
薬という外部の力を借りることによって、
一時的には多少「なんとかなってしまう」のが事実です。
高良先生は事実に従ったのです。
禅的先生は、事実でなく、
「森田療法」の理念、にしたがったのです。
不安はなくしたいものです。安心のほうがいいに決まってる
どこまでも不安はキライなんです。好きにならなくていい。
ところが不安は(本質的には)なくせない、と聞いて、
じゃあ好きになっちゃえ、受け入れちゃえ。と「考え」て、
やれ不安は成長の糧だの、
人間の生きてる証だの、もっと不幸な人がいるだの
と「考え」を工夫したり、
はてはあるサイトのように
「不安さんこんにちは」の唄までつくりだしたり、
とにかく
「不安を嫌わないで、受け入れよう。」とはからう
当然これは
やりくり、工夫、思想の矛盾です。
事実に従ったつもりで、事実以外の「理想」にしたがっています。
森田療法のつもりで、森田療法と真逆をやっています。
みなこれは
思想の矛盾です。
なんとかなるなら、そうすればよいのです。
ただしその方法がやたら手間がかかるものだったり、
依存性になるようなものだったら、
その事実をかんがみて、実行をひかえればよい。
最初から「実行を控えるべし」という結論が
存在する訳のものではないのです。
本質的な解決をもたらすわけではない、
気晴らしや、「逃避的行動」も
その限られた効果を自覚して、その分だけいただいて満足するので
あれば、なにもやみくもに否定することはないです。
薬もダメ、
禅的森田以外の神経症医療はダメ
害になる。
なんて、
窮屈なとらわれですよ。
「抗不安薬を補助として飲むことは、ちっとも悪いことではない」
という意味のことをいいました。
いっぽう「禅的森田療法」のある先生は
抗不安薬を売り込みにきた製薬会社の人に、
「不安でいてどこがいけませんか?」
といって相手の目を丸くさせたそうです。
森田療法として正しいのは高良先生です。
もちろん、そうでしょう。
不安はキライ、どこまでも何とかしたい、
というスナオな人情、我の発揮が森田療法のキモです。
不安がなんとかなるならなんとかしていいのです。
自分で自分の不安をなんとかすることはむずかしいですが
薬という外部の力を借りることによって、
一時的には多少「なんとかなってしまう」のが事実です。
高良先生は事実に従ったのです。
禅的先生は、事実でなく、
「森田療法」の理念、にしたがったのです。
不安はなくしたいものです。安心のほうがいいに決まってる
どこまでも不安はキライなんです。好きにならなくていい。
ところが不安は(本質的には)なくせない、と聞いて、
じゃあ好きになっちゃえ、受け入れちゃえ。と「考え」て、
やれ不安は成長の糧だの、
人間の生きてる証だの、もっと不幸な人がいるだの
と「考え」を工夫したり、
はてはあるサイトのように
「不安さんこんにちは」の唄までつくりだしたり、
とにかく
「不安を嫌わないで、受け入れよう。」とはからう
当然これは
やりくり、工夫、思想の矛盾です。
事実に従ったつもりで、事実以外の「理想」にしたがっています。
森田療法のつもりで、森田療法と真逆をやっています。
みなこれは
思想の矛盾です。
なんとかなるなら、そうすればよいのです。
ただしその方法がやたら手間がかかるものだったり、
依存性になるようなものだったら、
その事実をかんがみて、実行をひかえればよい。
最初から「実行を控えるべし」という結論が
存在する訳のものではないのです。
本質的な解決をもたらすわけではない、
気晴らしや、「逃避的行動」も
その限られた効果を自覚して、その分だけいただいて満足するので
あれば、なにもやみくもに否定することはないです。
薬もダメ、
禅的森田以外の神経症医療はダメ
害になる。
なんて、
窮屈なとらわれですよ。
事実を見るということのむずかしさ
事実以外のことをついつい事実だと
おもってしまう傾向について考えてみましょう。
なんどもいいましたが、たとえば
「不安はコントロールできない」という事実を知ると、
「不安をコントロールしたい」とおもってはいけない、
と考えがちです。
不安へのコントロール欲求をなくすことが
「事実に従順であること」だと考えてしまうのです。
これは事実以外のことを事実とみなすことです。
不安を受け入れるべきである。というべき思考は
事実でなく、人間の勝手な理想です。
理想を事実と混同してしまうのです。
もうひとつ例を出します
世の中に100%はありえない、という事実がある。
その事実があるから、
100%をめざさず、6割できれば充分だと「考えを変える」のが
事実に従順だと思いがちです。
これはちがいます。
そんな工夫を凝らさなくても
実際は、完璧でありたい、という欲求の事実にしたがったまま、
完璧はありえない、という事実にぶつかることができます。
森田はむしろ、完全欲はどこまでももっておれ、
もともとのそういう素晴らしい性質を変えようとすることはない。
といいます。
100%やりたい、という想いも事実、
100%は無理、という現実も事実
どちらもそれぞれ独立した事実です。
事実に合致しない誇大な欲望をいだくのも また事実。
死ぬという事実に矛盾した、死にたくないという想い、それも事実
よぉ〜〜く見極めないと、ここは本当にまちがいます。
死にたくない、と思っても、死ぬし、
死ぬのは平気、と思っても、死ぬのだから、
どっちでも死ぬことにはかわりないのだから
本音の方で行きましょう。
死んでも平気というのが本音の人は勿論それで結構です
世間並みでないとかの理由で、本音を改めようとしないように(笑)
おもってしまう傾向について考えてみましょう。
なんどもいいましたが、たとえば
「不安はコントロールできない」という事実を知ると、
「不安をコントロールしたい」とおもってはいけない、
と考えがちです。
不安へのコントロール欲求をなくすことが
「事実に従順であること」だと考えてしまうのです。
これは事実以外のことを事実とみなすことです。
不安を受け入れるべきである。というべき思考は
事実でなく、人間の勝手な理想です。
理想を事実と混同してしまうのです。
もうひとつ例を出します
世の中に100%はありえない、という事実がある。
その事実があるから、
100%をめざさず、6割できれば充分だと「考えを変える」のが
事実に従順だと思いがちです。
これはちがいます。
そんな工夫を凝らさなくても
実際は、完璧でありたい、という欲求の事実にしたがったまま、
完璧はありえない、という事実にぶつかることができます。
森田はむしろ、完全欲はどこまでももっておれ、
もともとのそういう素晴らしい性質を変えようとすることはない。
といいます。
100%やりたい、という想いも事実、
100%は無理、という現実も事実
どちらもそれぞれ独立した事実です。
事実に合致しない誇大な欲望をいだくのも また事実。
死ぬという事実に矛盾した、死にたくないという想い、それも事実
よぉ〜〜く見極めないと、ここは本当にまちがいます。
死にたくない、と思っても、死ぬし、
死ぬのは平気、と思っても、死ぬのだから、
どっちでも死ぬことにはかわりないのだから
本音の方で行きましょう。
死んでも平気というのが本音の人は勿論それで結構です
世間並みでないとかの理由で、本音を改めようとしないように(笑)
事実から離れてしまう二大要因
簡単なのに誤解している人が生まれやすい森田療法。
それはなぜでしょうか。
だって「事実を見」ればいいだけではないですか?
ひとつには、
人間、事実を見るのがあまり得意ではない。
ということがあります。
たとえば、事実以外のものを事実だと信じ込んでいる。
事実以外の「理想」や「規範」
あるいは自分以外の他人にとっての「事実」を自分に当てはめようとしていることです。
もうひとつは、
ただ単に事実をみようとしていないこと。
これはよくある誤解「なすべきをなせ」という指導にしたがって、
脇目もふらず日常生活をがんばり、
事実、特に自分の内面的事実、感情の事実をないがしろにする、
ということに因ります。
別の言葉で言いかえれば
「思想の矛盾」と
「やたらと行動する努力」
が
事実にしたがうことから離れさせているのです。
それはなぜでしょうか。
だって「事実を見」ればいいだけではないですか?
ひとつには、
人間、事実を見るのがあまり得意ではない。
ということがあります。
たとえば、事実以外のものを事実だと信じ込んでいる。
事実以外の「理想」や「規範」
あるいは自分以外の他人にとっての「事実」を自分に当てはめようとしていることです。
もうひとつは、
ただ単に事実をみようとしていないこと。
これはよくある誤解「なすべきをなせ」という指導にしたがって、
脇目もふらず日常生活をがんばり、
事実、特に自分の内面的事実、感情の事実をないがしろにする、
ということに因ります。
別の言葉で言いかえれば
「思想の矛盾」と
「やたらと行動する努力」
が
事実にしたがうことから離れさせているのです。
誤解の諸相
事実にしたがうのが森田療法。
仕組みはいたってシンプル。
それなのに、うまくいかない人が、実際沢山います。
指導者のいうとおり
ひたすら日常生活の行動を繰り返しながら
やはりうまくいかない、鈴木診療所やかつての発見会の人たち。
(発見会というのはよく知りませんが、昔は随分行動主義だったようです)
治っていないだけでなく、ちょっとヘンな人になってしまい、
ネット上の掲示板などで禅語を使いながらアドバイスしたりされたりを
くりかえし、かりそめの安定状態で低迷している
禅的森田療法系の人たち。
(治っていないわりには、不安がグルへの信仰・依存へと昇華されるのか、
とても元気です。 自分では治ったと感じるようです)
このように、
シンプルな森田療法のはずなのに、
こんなにうまくいかない例が普通にある。
コツさえ分かればすぐにだれでもできる、
シンプルなものですが、
誤解しやすいものでもあるのです。
仕組みはいたってシンプル。
それなのに、うまくいかない人が、実際沢山います。
指導者のいうとおり
ひたすら日常生活の行動を繰り返しながら
やはりうまくいかない、鈴木診療所やかつての発見会の人たち。
(発見会というのはよく知りませんが、昔は随分行動主義だったようです)
治っていないだけでなく、ちょっとヘンな人になってしまい、
ネット上の掲示板などで禅語を使いながらアドバイスしたりされたりを
くりかえし、かりそめの安定状態で低迷している
禅的森田療法系の人たち。
(治っていないわりには、不安がグルへの信仰・依存へと昇華されるのか、
とても元気です。 自分では治ったと感じるようです)
このように、
シンプルな森田療法のはずなのに、
こんなにうまくいかない例が普通にある。
コツさえ分かればすぐにだれでもできる、
シンプルなものですが、
誤解しやすいものでもあるのです。
悟りの訪問販売
神経症が治れば、
「構えがとれた態度」になる。
「こうでなければならない」と自分で自分をいじめなくなる。
逆にいえば、
神経症についてのアドバイスを受けるなら、
「構えのない感じのする人」
から意見を聞くのなら、参考になるでしょう。
自然で柔和な感じの人の意見であれば、役立ててみてもいいかもしれません。
逆に
なにかというと細かくつっかかってくる人、
押し付けがましい人、
他人に「こうでなければいけない」と
詳細にチェックしてくる人
柔和な丁寧な感じがとってつけたようで
不自然に感じられる人
そんな人からのアドバイスは眉唾ものです。
そんな人に限って、ほっといても向こうから
やってきて助言、というか口出しをしてくるものですが(笑)
悟りの訪問販売さん、押し売りさんには注意ですね。
相手にしなかったりするとちょっと不満そう。
趣旨に納得しないと滔々と、持論を展開してくれます。
きっかけを渡すと大変な目に会います。
感謝してみせると内心うれしそう。
結局、本心は相手への親切ではなく、
自分への称賛を得たかったのだな〜とわかってしまいますね。
助言活動に精力的なわけだ。
染まったら大変です。
ブログなども、行動したことしか書かなくなる。
日記に事実だけ書く、というのは
森田療法の入院で、治療者に見せる日記においてのみ
成り立つものです。
事実の羅列だけではおもしろくない、という
「ブログとしての事実」が
みえなくなっています。
とらわれが伝染したわけです。
「構えがとれた態度」になる。
「こうでなければならない」と自分で自分をいじめなくなる。
逆にいえば、
神経症についてのアドバイスを受けるなら、
「構えのない感じのする人」
から意見を聞くのなら、参考になるでしょう。
自然で柔和な感じの人の意見であれば、役立ててみてもいいかもしれません。
逆に
なにかというと細かくつっかかってくる人、
押し付けがましい人、
他人に「こうでなければいけない」と
詳細にチェックしてくる人
柔和な丁寧な感じがとってつけたようで
不自然に感じられる人
そんな人からのアドバイスは眉唾ものです。
そんな人に限って、ほっといても向こうから
やってきて助言、というか口出しをしてくるものですが(笑)
悟りの訪問販売さん、押し売りさんには注意ですね。
相手にしなかったりするとちょっと不満そう。
趣旨に納得しないと滔々と、持論を展開してくれます。
きっかけを渡すと大変な目に会います。
感謝してみせると内心うれしそう。
結局、本心は相手への親切ではなく、
自分への称賛を得たかったのだな〜とわかってしまいますね。
助言活動に精力的なわけだ。
染まったら大変です。
ブログなども、行動したことしか書かなくなる。
日記に事実だけ書く、というのは
森田療法の入院で、治療者に見せる日記においてのみ
成り立つものです。
事実の羅列だけではおもしろくない、という
「ブログとしての事実」が
みえなくなっています。
とらわれが伝染したわけです。
事実だけにしたがう
安心したい、という欲望も事実。
その欲望どおりにいかない現実がある、ということも事実。
二つの事実にしたがう。さからわない。
これが森田療法。
森田療法をやっている、
ということは、
「事実」にしたがう。
「事実以外」にはしたがわない。
ということです。
「事実」に沿う。「事実」にまける。「事実」をよりどころにする。
「事実以外のこと」にはうごかされない。まどわされない。ひきづられない。
いつでも事実にしたがうようになれれば、神経症の治癒です。
「構えがとれた態度」になっているはずです。
当然です。
「構え」とは、
それによって安心を得ようとして、あえて作り出すものです。
事実がいつでもヨリドコロになってくれるから、
それ以外にヨリドコロをあえて作り出す必要はありません。
その欲望どおりにいかない現実がある、ということも事実。
二つの事実にしたがう。さからわない。
これが森田療法。
森田療法をやっている、
ということは、
「事実」にしたがう。
「事実以外」にはしたがわない。
ということです。
「事実」に沿う。「事実」にまける。「事実」をよりどころにする。
「事実以外のこと」にはうごかされない。まどわされない。ひきづられない。
いつでも事実にしたがうようになれれば、神経症の治癒です。
「構えがとれた態度」になっているはずです。
当然です。
「構え」とは、
それによって安心を得ようとして、あえて作り出すものです。
事実がいつでもヨリドコロになってくれるから、
それ以外にヨリドコロをあえて作り出す必要はありません。
実はあなたはすでに森田療法を知っている。
前々回の記事で、
神経症者のもつバカバカしい完全欲、
実現不可能な、いかにも神経症的な欲求を
うちけしてはならない。
と述べました。
その欲求が現実性をおびていない、バカバカしいものだという
理由のために、
「そんなことを考えてはならない」「考えないようにしよう」
と戦うのですが、そんなことは余計なことです。
「気持ちをいつもすっきりさせたい」とか
「神経症の発症の仕組みを知りたい」
「教科書を完璧に理解したい」
「心を整えておきたい」
たしかにバカバカしい欲求です。実現はむずかしいでしょう。
しかし、
こうした欲求をいだいてしまう、ということと
それが実際実現不可能である、無理である、ということとは
まったく別の、それぞれ独立した事実なのです。
その、どちらの事実にも従っていればいいのです。
その事実に転がされ、おのずと落ち着くべきところにおちつきます。
「理知と感情との調和」ということです。
「現実」がその欲求どおりにならないからといって
これらの欲望をも、「現実」にお付き合いして、なくす義理もないはずです。
これが本当に「事実」をよく見抜いたあり方です。
バカバカしい欲求をもっているのが神経症なのではなく、
バカバカしいからってなくそうと頑張るところが神経症なのです。
満員電車の例で言えば
座りたい!(事実)
座れない!(事実)
残念だ!(事実)
これでおわりです。
どこまでも事実にしたがう。
なので無理はない。
心はどこまでも葛藤がなくてラク
ライク・ア・ローリング・ストーン
実はこれが森田療法なのです。
だからみんな知らずにやっています。
ある特定のことに関してはそうなっていないだけで。
そのことも
電車の例のようにすればいいのです。
だれでもどこでもすぐできる。
神経症者のもつバカバカしい完全欲、
実現不可能な、いかにも神経症的な欲求を
うちけしてはならない。
と述べました。
その欲求が現実性をおびていない、バカバカしいものだという
理由のために、
「そんなことを考えてはならない」「考えないようにしよう」
と戦うのですが、そんなことは余計なことです。
「気持ちをいつもすっきりさせたい」とか
「神経症の発症の仕組みを知りたい」
「教科書を完璧に理解したい」
「心を整えておきたい」
たしかにバカバカしい欲求です。実現はむずかしいでしょう。
しかし、
こうした欲求をいだいてしまう、ということと
それが実際実現不可能である、無理である、ということとは
まったく別の、それぞれ独立した事実なのです。
その、どちらの事実にも従っていればいいのです。
その事実に転がされ、おのずと落ち着くべきところにおちつきます。
「理知と感情との調和」ということです。
「現実」がその欲求どおりにならないからといって
これらの欲望をも、「現実」にお付き合いして、なくす義理もないはずです。
これが本当に「事実」をよく見抜いたあり方です。
バカバカしい欲求をもっているのが神経症なのではなく、
バカバカしいからってなくそうと頑張るところが神経症なのです。
満員電車の例で言えば
座りたい!(事実)
座れない!(事実)
残念だ!(事実)
これでおわりです。
どこまでも事実にしたがう。
なので無理はない。
心はどこまでも葛藤がなくてラク
ライク・ア・ローリング・ストーン
実はこれが森田療法なのです。
だからみんな知らずにやっています。
ある特定のことに関してはそうなっていないだけで。
そのことも
電車の例のようにすればいいのです。
だれでもどこでもすぐできる。
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