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ミッション・インポッシブル

こういうものを眼にしたことはありませんか。


「いまから、3分間、きつねのしっぽのことだけは考えないでください」


この命令、したがえるでしょうか?
無理ですよね。

いわゆる、不可能な命令の例として、こんなのをよく眼にします。

こんな命令を出すとしたら、出すほうがわるい、 といわざるをえません。


しかし、
いわゆる「森田療法・のようなもの」、特に禅的森田療法において、

こういう指示が平気で出されて、
それを聞いた方も、一生懸命守ろうとして、当然
できないで苦しむ。


こんなことが昔から繰り返されています。


しかも指示を出すほうに悪意がない分だけ、たちがわるい。



たとえば、
かつてよく鈴木知準医師は、
「すっと動く」「間髪を入れずに動く」ということを
強調していました。


その結果がまねくのは、
実際に「すっと動く」ことではなくて、
「すっと動こうとする」ありかたそのものです。

実際のありようはそうしたものでした。


宇佐療法で
「心を整えたらいかん」といわれれば、どうしても
「整えないようにしよう」とがんばっちゃうようになるだけ。

それは「整えようとすること」そのもの。


だれでもそのようになって困惑するのですが、


その戸惑いをうったえたところで、
「ひたすら前へ」「粘れ」といわれるか、

ただ単に「それは間違いだよ」といわれるのみ。
「治そうとしてはいけない」なんてね。


やがて
「整えたいという気持ちはイカンのだ」と
自分の自然な欲求にケチをつけるようにもなります。


つまり、やればやるほど
苦しい・しばられる・解放されない・
自分をいじめる、おさえる、という方向に向かう。


一時期どっとつかれて、やめてしまっては
また続ける、その繰り返し。


森田療法をやってもなあ。。という方は大体
こんなところが実情じゃないですか?



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ネット上でも、このようなアドバイスが平気でなされています。


神経症、仏教関連などのブログのコメント欄に
頻繁に出没する、ある宇佐療法経験者がいます。

他人のブログのコメント欄をよく
のっとって、本人曰く「森田原法」にもとづいた
アドバイスを、宗教の教祖さながらに展開していますが、

さんざんアドバイスをした上で、
「こうしたこともすべて忘れていただいて、すぐ外の生活を・・」
などというのですから、
まさに「3分間キツネのしっぽ」です。


こうしたアドバイスをうけて一時的に
頑張る外向きの生活が実は
「神経症の上塗り」であることはすでに何度も説明しました。


そして、自分という主体から濾過されていない
こうした「とにかく前へ」の行動的生活は
ロボットのような、規範的生活へも容易におちこみやすいでしょう。


その結果が、神経症を悪化させたままでさらに欝になるという
悲惨なパターンです。





一般に、
この手の「森田療法体験者」のアドバイスは
自分さえ間違ったことをいってなければそれでよし、で、

相手がどういう気持でそれを聞くか、
言ったことが相手につたわるかには、


まるで無神経な場合が多い。


自分と異なる意見を見つけだすと、突然そこのコメント欄にやってきて、
自分の意見のかずかずを上から目線で述べ立てる。


「分からない」と答えれば、「分かるように話すのが
本当の親切ではないのです」といった詭弁も多く用意しています。


「ご参考までに」「お聞き流しください」という言葉と裏腹に
しつこくコメントをつづける態度はいやにねちっこい。

トラウマに苦しむ人がいれば、
「トラウマなどは概念に過ぎない」と面と向かって語り、
相手がうけがわないと、ナイフをつきだして、
「はいそうです、と言え」と迫るような感じがあります。

「正義は全部自分にあり」と態度が語っています。



「ある種の森田療法経験者には自己愛性のくさみがのこる」
といわれるのはこうしたところでしょう。



おそらくこの人は、「宇佐療法を伝える」という大義名分に隠れ、
無意識の本音がおこないたいことは、

「自己を認めさせたい」

ということでしょう。

慇懃な言葉遣いにだまされないよう距離を置いて、
この人の行動だけに注目すれば、
ファナティックで、熱意こもる様子が浮き彫りになり、
そこから、そのような本音が見えてきます。

本音を意識できないのは宇佐療法の副作用です。

ただしい森田療法で本音を掴む訓練をすれば、
本音と行動とのバランスがおのずと取れ、
奇矯な自己主張のありようはなくなっていたでしょう。







相手がモットーに取り込んでしまうような指導からは、はなれるために
森田自身の苦い体験をも経て、蓄積された知恵の集大成が
森田療法だと思うのです。

森田療法では
不可能の戦いをやめることをすすめています。

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「過去と他人は変えられない」・・・だから何?


前回や前々回の記事、
きっとこういう反論があると思うんです。

   「バカバカしい、実現不可能な欲求を否定するなというが、
    やはりバカバカしいではないか。

    森田療法の先生は、不安はコントロールできない、と
    こぞっていっている。森田療法以外でもそうだ。
    「過去と他人は変えられない」とか
    「人は今ここでしか生きられない」とかね。


    そのことをよく知り分けて、不安はコントロール出来ないのだ、
    というようにあらたに認識を持つことが大事なのではないか?

    不安をコントロール出来ないのに、コントロールしたいと
    いつまでも思っていては苦しいではないか。



なるほど、といいたいのですが、
これは猿知恵です。こーゆーのが猿知恵です。

過去と他人は変えられない だから心の要求水準をさげよう。
というアレです。
俗っぽい心理学本にあるような・・・

一見合理的でしょ?でも理屈から割り出した
猿知恵です。


思い通りにならない結果がみにしみて、
思い通りにならない、と心から思えるのなら
大賛成です。体験を経た知恵だから。



しかし
神経症の人は
そうした体験の前に、つまり
その結果が身にしみないうちから
猿知恵で想像して、
あらかじめ馬鹿馬鹿しい考えを排除しようという
魂胆です。

一見合理的ですが、
そんな理屈で失くなるほど
人間の馬鹿馬鹿しい欲求は弱くありません。

いいかえればそれほど人間の煩悩エネルギーはつよい。
それは生命力があるということでもあります。

そっちの事実にもしたがうことを
森田療法ではすすめています。



人は死ぬと決まっている。
だからって「死んでもいい!」と思えますか?ということです。



満員電車で座れない、というときに、
座りたいという煩悩をなくしてしまおう。そうすればラクになれる。

というような人がいたらどう思いますか?
めんどくさいこと頑張ってるな〜とおもいませんか?

心理学にのっとっているように見えて、
実はまるで神経症くさいでしょ?

(座りたい!座れない!残念!でいいじゃないですか)




本人は森田療法のつもりで・・・

前回の記事、簡単にまとめておきます。


神経症者は過大な完全欲をもってしまいます。

万一をおそれ電車に乗れない、4の字をさける。正確な言葉を使いたい、とか。

それが日常の生活の障害になって苦しいし、病的だとみなして、
反射的になくそうとする。

それを猿知恵でなくそう、否定しようとして苦しむ(不可能の戦い)のが神経症ということです。

そして、その不可能の戦いは、
今言ったような頭の中での打ち消し行為だけではないのです。


「おれは森田療法をやっているぞ!」と頑張って、
外向きの行為にはげんでいる、ということも
まったく頭の中での打ち消しと同じ性質のものなのです。

このことを特に強調しておきたいのです。(なんども言ってるけどね)

行動にはげむことによって、馬鹿馬鹿しい欲求や不安をみないふりして、
ごまかしているのです。

それは、事実として在るもの、を観ない、向き合わないで、
眼をそらしているのですから、打ち消し行為と同質なのです。


神経症の治療をしているどころか、
神経症そのものをくりかえしているわけですから、行き詰まるのは当然です。

馬鹿馬鹿しくても自分の気持

前回、
神経症の人に、もっとシンプルであってください。と述べました。

つまり、一番最初の、スナオな心の叫びのまま、オリジナルな感情のままと
いうことです。

知的に価値判断をくわえる前。世間や他人の声、損得の判断をくわえるまえの。

たとえば、


不安をコントロールしたい、

絶対に不潔な雑菌を百バーセントふせぎたい。

神経症発生のからくりを知りたい。

心を整えたい。


というような、
実現不可能だったり、世間の視点からみれば些細で、馬鹿馬鹿しいような
欲求のことです。
つまりいかにも神経症的な、あの完全欲のことです。


中途半端に頭のいい神経症者は、
それがすぐ無理な欲求であることをわかってしまいます。

また、これが今の自分の神経症の苦しみのおおもとだと思っています。
(本当は違います。)


このように知的判断がすぐはたらくものですから、
原点のこうした想いを、すぐ打ち消してしまいます。
神経症の人は、こうした想いが浮かぶと同時に
反射的に打ち消すのが癖になっています

ブログの一番最初に書いた記事
「不安と不安ではいけないと同時に起こっている」
と述べました。


不安があること、桁外れな欲求、馬鹿馬鹿しい完全欲、を持っていることが
神経症なのではなく、それを猿知恵で、打ち消そうということが
神経症なのです。


この打ち消しは反射的に無自覚に起こるので、
とりわけ、自覚的であることが必要になります。

意識的に自分の心がどうなっているか、よく観る、見抜くことが
大事になってきます。
なので森田療法をひとことでいうと「観る」なのです。



だからこそ、
「がたがた言わんと、仕事や勉強に精を出せ。」
「自分の心を振り返らず、そのまま前進」
「うごきを粘れ」

というような「森田療法・のようなもの」は
もってのほかということになります。

それでよくなる人は一部で、人生を左右するような
神経症的人生からの脱却が、そんな博打のようなやりかたで
なされるのは、少なくとも私は勧める気になりません。
(特にひとりで実行する人は)

また、それでよくなった人や、よくなったと信じ込んでいる人の
ネット上などでの大きくて熱心な「これこそ森田療法だ」
という声にかくれて、
それを信じて続けてみてもうまくいかない
多くの人がいるという事実も無視できません。



まずはなにはともあれ、自分のシンプルな気持ちに
猿知恵でケチつけないことが始まりです。

「不安なときに、ちょっと行動に手をつけてみる」
というようなことは、実はほとんど不安にケチをつけている行為です。
そういう日常のパターンから抜け出すことを勧めます。

体を動かしているから気づきにくいですが、
実際は「思想の矛盾」の変奏、バリエーションなのです。

殊勝な神経症者

神経症の人は殊勝です。
ものわかりがよいというか。

不安はコントロールできないと言われると、
不安はコントロールできない、といいきかせようとするし、

不安はあるがままにといわれると、
あるがままでいようとするし。

「治そうとするのがいけない」といわれると
「治そうとするのをやめよう、そのままでいよう」としたりする。


「悩みがあるのが人生なんだ」と
うそぶいてみたり。


「世の中にはもっと大変な人がいる。神経症的な悩みなんて取るに足りない」
と、自分にとって絶対のはずの悩みを無価値化しようとしたり。

(いくら自分の悩みがちっぽけだとしても、その悩みは
 自分にとって絶対でしょう。
 反対に、いくら大変な状況の人の悩みでも、この自分が
 それを「悩む」ことはできません。)



不安を受け入れようとしたり、
あきらめようとしたり。


・・・大変だァ〜。




なんでそんなに殊勝なのですか?
なんでそんなにすぐ工夫するのですか?


それで結局あきらめられましたか?
受け入れられましたか?
コントロール出来ないんだな、よかったよかった。
ちゃんちゃん、
という風に円満に終わりが来ましたか?



・・・来てないんじゃないんですか?正味の話が。





俺は(あたしは)不安をなんとかしたいんだ!!
不安は嫌なんだ!!
悩むのはキライ!!
すっきりしていたい!
安全でいたい!
ものごとはすぐ思い通りになってほしい!!
楽して最高の結果を得たい!
なまけていたい!
他人に好かれたい!
汚いトイレに入りたくない!
「4」とか「9」の字は不吉なのでみたくない!
健康でいたい!
完璧でいたい!
綺麗でいたい!
すぐに、完全に理解したい!
神経症を治したい!



そういう本心のままでいいじゃないですか。

それらはみな、心の厳然たる事実じゃないんですか







原初の叫びとでもいうような、シンプルでスナオなキモチ
気づいてください。

もっとシンプルであってください。