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我の発揮



森田療法は
感情と理知との調和といわれます。
どちらも自分の「我」を活かすことです。

理知も感情も自分をかたちづくるもの。

理知と感情がそなわって、全体の自分の我です。
その「我」をよくみつめ、本当の意味で発揮させることです。




「心なんてどうでもいい」などといった
他人の言葉に盲従すること、

「不安はほったらかし」
といったエライ人の言葉を
自分に言い聞かせて無理すること、

「他人へのサービスをしなさい」
「仕事や勉強にはげみなさい」といった
治療者の価値観を自分に当てはめてみることではありません。


そうやって本当の意味で自己にしたがうとき、

わがままにも放縦にもならず、
といって
やりたくないことまで無理して頑張るような
「外づらのいい子」
にもなりません。


放縦でもなく、過剰に頑張るのでもなく、
自然に調節がとれるようになるのです。

いままで「森田療法」に励んでいたときの
あの嫌な感じ、やらされ感、切迫感はないのです。



のびのびした感じ、自然なカンジになります。
自分というものと、ぴったし合った感じがします。

ときには気晴らしをしたり、適当にやったりします。
ときには頑張ったり、しかたなく無理したりします。

サボるのも頑張るのも自由自在。




森田療法ではタブー、ご法度、万死に値する様な
言語道断みたいにいわれる「気晴らし」だって、
それなりに楽しめますよ。

あれはあれでなかなかいいものです。

世間の人とおなじく、それを楽しめるようになります。

ある種の森田療法で推奨されるような
「スーパー健康人」だとか
「本音を隠しおおせたタヌキ」のようになるよりも
世間並みの人になっていただきたいですね。



そして、やはり
「自分を振り返らず、すぐ行動にはげむ」ということをやっていては、
いつまでたっても「我の発揮」に至りにくいとおもいます。
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精神療法として特殊なものではない

森田療法を
世界の精神療法の中でも特殊なものだ、といって
その独自性をもって顕揚しようとする元患者もいるようです。


なぜ単なる精神療法をそこまでして持ち上げたくなるのか、
わかりません。

まあ、自分が救われた喜びもあり、
また、森田療法は常識の予想の範囲外をいくアプローチもある
(それは神経症治療にはむしろ当たりまえなのですが)
面があることはたしかですが

そうした理由を越えた熱心かつ執拗な持ちあげぶりを
しています。

つまり
信者
ということでしょう。

誤解された森田療法のひとつの特徴に
「信者ができあがる」という面があります。
多くの事実を見聞します。




しかし私は
森田療法は、
心理療法としての特殊性を見い出しにくいぐらい
平凡な、治療であるという見方をとります

神経症は早い話が、自分の気持ちを瞬時にごまかす習性のあるひとなので、
自分の気持にきづくことが大事です。




著名な精神分析医、神田橋條治さんは

精神疾患に悩むひとに向けた著書のなかで
まず「気持ちがいい」をさがすのがいいといっています。

自分が「気持ちがいい」という感じをつかめることが
大変重要だとしています。
(『精神科養生のコツ』)

これを読んだ時、森田療法とは真逆だな、と感じたものですが、
いまなら森田療法と矛盾していないということがわかります。



精神療法は大きな共通点があるようです。
森田療法も、一般のイメージとはことなり、
森田自身の著書にふれると、
自分の気持ちへの自覚を強調しています。

森田療法は特殊ではなく心理療法としての平凡、つまり
王道をいくものです。

しかも他のものよりラクです。

考え方を変える認知療法。
行動を変える行動療法。
過去をさぐる精神分析。

こうしたものよりはラクだと思っています。