fc2ブログ

家具に値札

森田は、診療所の家具や用具に、その値段を貼りつけておきました。

この容器は買うのにいくらかかったか、
そういう事実を知れば、入院生は、自然に高いものは大切に、
安いものはそれなりにあつかうようになるでしょう。

事実を知らせることをもくろんだ、森田らしい工夫です。




逆に言えば、
森田は、事実を知らせるにとどめて、
「モノを大事にしなさい」というような教え方をしなかった。



「他人に親切にしなさい」とか「人のお世話がよろしい」などといわなかった。
「早起きをしなさい、規則正しい生活をしなさい」「やりたくない勉強でも、
やりたくないまま、必要なのでしなさい」

というようなことはいっていない。

「モノを大切に」などという観念的なことは言わない。
そんなことをすれば、モットーになってしまう。そしてとらわれる。

モットーと本音との戦いで苦しむのが神経症であることを
知悉している森田は、わざわざ神経症を強めるようなことを
いわなかったのです。




小説にハマって勉強ができない、という学生の患者には
「なすべきをなせ」などとはいわなかった。

ただ、「”小説は面白くてなかなかやめられないものである”という
事実
をつかめばよろしい」と話しました。

いまならネットやゲームでしょうか。

怠け心をかえようとするよりも、娯楽の性質をよく知り分けること。
敵をよく知るということ。

現代の依存症治療にも通じる発想です。




モットーで行動をコントロールするのではない。
(これが森田療法だと殆どの人が思っている)

そうではなく、
ただ、事実に従う。こんなラクなことはない。

これが森田療法です。





ところで、自分がかつて入院した、
ある「禅系」森田療法施設には、

「タバコを吸うようでは神経質は超えられない」

というような張り紙がありました。

これはモットーそのものであり、
神経症をさらに縛るもの、葛藤におちいらせるものであり、
もっといえば脅しです。

喫煙者が神経症とはかぎらない。非喫煙者でも神経症はいる。
あたりまえのことです。

別の施設には「しゃべる人は治りません」という掲示がある。
療法として無言であることを要するのは理解できるとしても、
こういう表現は疑問です。

後代の森田療法、とくに禅的といわれる森田療法では
森田療法への誤解をもたらすことが多い、と思わせる見聞が多いように感じます。


外側からの権威にもとづく、いってみれば体育会系の努力と精進の日々をつづけ、
治癒のもたらすラクさ、解放感をしらずにいるのは
ちょっと気の毒な感じがします。


誤解をしやすい森田療法家の著作ではなく、森田の原著に触れるこころみが、
森田療法でなかなか治らない、という疑問を持てた人には
大きな示唆になると思います。

スポンサーサイト



残念な関係

「森田療法の言葉にしたがって、行動しているのに、ちっともよくならない。
なにかすっきりしない」
という人はかなりいるとおもいます

それは誤解された森田療法をおこなっている可能性が高いのです。
残念ながら、いまだにそういう誤解に基づくアプローチが多いのです。



「気分に目を向けず、意識を外に向けて、行動をしなさい」

そういうアドバイスにしたがって、やってみた。
しかし
「なにかすっきりしない。どうもおかしい」と感じる。
ちっとも治った感じがしない。


こうして疑問を感じること
あらたな出発のきっかけになりうる、せっかくのチャンスの芽です。

自分の本音、自分の心に気づくという、治癒の契機をつかんだ経験です。



しかし・・・
そのことをかつてアドバイスした人に相談してみると、

「行動するのは、なおすためじゃないよ」
「森田療法は、気分をすっきりするためのものではない」

などといわれてしまいます


正論なのだが、かみあっていない。

そしてまたひっこむしかなくなります。


これでせっかくの再生のチャンスの芽がつみとられ、
せっかくうまれた自己の本音を押し殺して、
他人から与えられたドグマに、自分を合わせようと無理する
葛藤の日々がまた、はじまってしまうのです。



*****************


では、なぜすっきりしないのか。

「スッキリしない」感じは、
客観的にいえば、
「思想の矛盾」が解消されていないことからくるものです。

アドバイスする人にしてからが、
「思想の矛盾」を解消できていない。

それどころか、

「行動は治すためじゃない」
「気分はコントロールできない」
「そのままでいい」

というごもっともな「思想」で
自分をおさえてなんとかなってるだけ
にすぎないのが
実体です。

そういう「思想」を自分に言い聞かせて、不安をやりくりしているだけにすぎないのです。

心なんかどうでもいい?

森田療法は
人情を大事にする治療法です。


トイレを汚いと思うのも人情、汚いのが気になるというのも人情。

汚れないように気をつけて、掃除するというのは
人情にしたがうというわけです。




しかし、一部の森田療法では、
まるで「人情から離れる」ことをすすめるような指導があるようです。

このような指導こそが、森田療法の誤解をしたまま、一生懸命なおそうと
頑張るがうまくいかない、という人を多くうみだしているのです。


いわく
「心に手出しをしない」
「”自分にとって”ということをいうな」
「心には後足で砂をかける」態度でいい・・・・
「心はほったらかし」・・・・

(これらの言葉を言った人とは別の人になりますが、
「心なんかどうでもいい」というタイトルの森田療法(を謳った)本もあります)



これらは不安にたいしてやりくりするな、という意味でしょうが、
ヘタをすると、「不安があるのに見て見ぬふり」をするようになります。
心に知らんぷりはよくありません。
いくら知らんぷりしても、本当は厳として不安がある、ということは
実は自分が知っています。

いくら、「どうでもいい」といい聞かせても、
「どうでもいい」と思えないのが本音です。人情です。
事実です。



神経症はもともと、厳としてある、不安という人情、心の事実を
無視しよう、戦おう。とするところが出発点でした。(不可能の戦い)

不安を、「どうでもいい」と「ほったらかし」て、「前進」するだけでは、
その出発点のありよう(不可能の戦い)を繰り返すだけになるのです。


気になるものは気になるのに、これらの言葉のおかげで、
気にしないようにとできない努力をし、当然その戦いに敗北すると、
そんな自分を叱咤し、責める。


そんな人が多くいます。



これらの言葉にひっかかり「不可能な努力」にはげまないようにしたいものです。