理論ではなく、どこまでも事実から
また森田の実際の指導の例をあげてみます。
トイレ掃除についての言葉です。
やはり現代の森田療法らしきものとはちがうんですね。
汚いトイレ掃除をするときに、
「汚いけれども必要なことだから仕方なくやるのだ」
といって、気張るか、いやいやだか、わかりませんが
そうして掃除にとりかかることを
森田療法だと思っている人は多いかと思います。
しかしこれは、よくみると
「汚いけれどもうんぬん」という理屈を頭の中でこさえて、
それにしたがって行動しているということです。
つまり「理屈から出発する」状態です。
そういう理論を考えだしている、考え出さずにはいられない、
その裏側には、
やはりその理屈によって安心しよう、という気持ちがあるでしょう。
マニュアルをつくると安心ですから。
「これにしたがっていればともかくも間違いがない」というのが
マニュアルであり、理論であります。
しかし森田はこういうことをいっていません。
そういう理屈から出発するのではなく、
あくまで
「事実」「感じ(感じも「事実」のひとつです)」
に着眼点をおくのです。
理屈、理論があらかじめあるのではありません。
森田はいいます。
トイレをみて起こる、
汚い、嫌だという感じや汚れの事実をとらえる。
しばらく見つめて、さらに事実に参じていれば、
嫌だけど、汚いのを何とかしたい、ほうっておけない、気になる
という感じも起こる。
そこで、いやだけど、汚れないよう気をつけながら、
掃除をする、という行為になるのです。
(大意)
(逆に言えば、汚くても平気なら、掃除するには及びません)
理屈から始めるのと違って、無理がない感じがしませんか。
あらかじめ理屈が存在するのではなく、その場その場で、
事実に参じ、事実に基づいた対処があるわけです。
つまり、
森田療法でまず行うことは、
事実を見る目をやしなうことです。
形式ばった行動のモットーがあるのではないのです。
理屈をこさえて安心しがちな傾向が神経症者ですが
すこしずつでも事実を観るようにするといいと思います。
トイレ掃除についての言葉です。
やはり現代の森田療法らしきものとはちがうんですね。
汚いトイレ掃除をするときに、
「汚いけれども必要なことだから仕方なくやるのだ」
といって、気張るか、いやいやだか、わかりませんが
そうして掃除にとりかかることを
森田療法だと思っている人は多いかと思います。
しかしこれは、よくみると
「汚いけれどもうんぬん」という理屈を頭の中でこさえて、
それにしたがって行動しているということです。
つまり「理屈から出発する」状態です。
そういう理論を考えだしている、考え出さずにはいられない、
その裏側には、
やはりその理屈によって安心しよう、という気持ちがあるでしょう。
マニュアルをつくると安心ですから。
「これにしたがっていればともかくも間違いがない」というのが
マニュアルであり、理論であります。
しかし森田はこういうことをいっていません。
そういう理屈から出発するのではなく、
あくまで
「事実」「感じ(感じも「事実」のひとつです)」
に着眼点をおくのです。
理屈、理論があらかじめあるのではありません。
森田はいいます。
トイレをみて起こる、
汚い、嫌だという感じや汚れの事実をとらえる。
しばらく見つめて、さらに事実に参じていれば、
嫌だけど、汚いのを何とかしたい、ほうっておけない、気になる
という感じも起こる。
そこで、いやだけど、汚れないよう気をつけながら、
掃除をする、という行為になるのです。
(大意)
(逆に言えば、汚くても平気なら、掃除するには及びません)
理屈から始めるのと違って、無理がない感じがしませんか。
あらかじめ理屈が存在するのではなく、その場その場で、
事実に参じ、事実に基づいた対処があるわけです。
つまり、
森田療法でまず行うことは、
事実を見る目をやしなうことです。
形式ばった行動のモットーがあるのではないのです。
理屈をこさえて安心しがちな傾向が神経症者ですが
すこしずつでも事実を観るようにするといいと思います。
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森田療法で自然になる人、不自然になる人
前の記事で、疑いがあるときには、疑いを否定しない、ということを
書きました。つまり、すなおであることです。
こういうとき、元気満々とはいかないでしょう。
イケイケドンドンにはなれない、迷いの態度。
われながらふがいないし、他人から見ても頼りなく見えるかもしれません。
そしてこういう時にはそれが一番自然な態度です。
「誤解されたものと違う森田療法」ではこうした様子が治癒像です。
不安があっても元気に振舞う。挨拶を元気にして、笑顔でいる、などという
指導をして、それが森田療法だと言っている人がよくいますが、違います。
そういう風に、「行動を決めてしまうこと」自体が、強迫性のあらわれなのです。
「不安を放置しなければいけない」という強迫に陥っています。
(よく注意して、こういうアドバイスをする人の様子を見れば、
「絶対こうだと決めつける」「こうしなければならない」
「このとおりにしていれば間違いがない」といったニュアンスが多く、
そこに、彼自身よく陶冶されていない、「強迫性」を見いだすことは簡単です)
なにか理想の態度、「これさえ守っていればいい」という態度を考えだして、
それを自分に当てはめることではありません。
それは「神経症」の上塗り、「かくあるべし」の強化です。
元気にしなければならない、笑顔でいなければいけない、ということがあるのではなく、
状況によっては元気なふりをすることがあるかもしれない、ということです。
それはあらかじめそう決まっているわけではないのです。
こうすればいい、という行動マニュアルを作り出して、それに従おうということの
裏には、それによって安心したい、という心が隠れているものなのです。
その安心したい、という感情、不安な感情の方に親しくしていただきたいものです。
書きました。つまり、すなおであることです。
こういうとき、元気満々とはいかないでしょう。
イケイケドンドンにはなれない、迷いの態度。
われながらふがいないし、他人から見ても頼りなく見えるかもしれません。
そしてこういう時にはそれが一番自然な態度です。
「誤解されたものと違う森田療法」ではこうした様子が治癒像です。
不安があっても元気に振舞う。挨拶を元気にして、笑顔でいる、などという
指導をして、それが森田療法だと言っている人がよくいますが、違います。
そういう風に、「行動を決めてしまうこと」自体が、強迫性のあらわれなのです。
「不安を放置しなければいけない」という強迫に陥っています。
(よく注意して、こういうアドバイスをする人の様子を見れば、
「絶対こうだと決めつける」「こうしなければならない」
「このとおりにしていれば間違いがない」といったニュアンスが多く、
そこに、彼自身よく陶冶されていない、「強迫性」を見いだすことは簡単です)
なにか理想の態度、「これさえ守っていればいい」という態度を考えだして、
それを自分に当てはめることではありません。
それは「神経症」の上塗り、「かくあるべし」の強化です。
元気にしなければならない、笑顔でいなければいけない、ということがあるのではなく、
状況によっては元気なふりをすることがあるかもしれない、ということです。
それはあらかじめそう決まっているわけではないのです。
こうすればいい、という行動マニュアルを作り出して、それに従おうということの
裏には、それによって安心したい、という心が隠れているものなのです。
その安心したい、という感情、不安な感情の方に親しくしていただきたいものです。
人情に帰れ
森田の言葉です。
「さきほども疑いながら絶えず研究せよといった。それは人情のもとに帰れということであって、最も自然なことである」
疑ってしまう、という人情を大事にする。
しかし、研究をして、自分の人生を発展させたい、という人情も大事にする。
疑いながら続ける、というのがもっとも自然で、人情にかなうというのです。
疑うからすぐやめてしまうのは、(この人のこの状況では)不安に振り回された態度。
だからといって、厳に存在する疑いを無視し、そんなものないかのようにして
研究に邁進するとか、
研究するには疑いがあってはいけない、といって無理に疑いを消そうとする。
どちらも自然の人情を無視した態度です。
疑いながら続けていれば、やがて、おのずからどうしたらいいか結論は出てくるでしょう。
落ち着くべきところに落ち着くでしょう。
疑うという部分を大事にしないで、あえてなくしてしまうとどうでしょう。
つまり「やるべきこと」なのだから、と考えて疑いを相手にしないで、
研究に邁進しつづける。
こういう態度を身につけると、
本当に疑った方がいいときに、それでもその行為をやってしまう、というような
身動きの不自由さにみたされるでしょう。
あるいは微妙な人情、感情を無視してしまうようになるとどうでしょう。
遠慮した方がいい場面で、他人に声をかけてしまうとか、
自分の意見を一方的に言ってしまうようになります。
対人恐怖の人が、
誤解された森田療法の、「なすべきをなせ」、ということに
従って、
柄にもないナンパをして、当然ながら失敗をしてしまうという話もあります。
「不安でも行動」というモットーにだけ従って、
自然に沸き起こる人情からの調節作用を無視した結果です。
自然に沸き起こる人情は、都合が良くても悪くても、沸き起こった以上、無視することはありません。
「さきほども疑いながら絶えず研究せよといった。それは人情のもとに帰れということであって、最も自然なことである」
疑ってしまう、という人情を大事にする。
しかし、研究をして、自分の人生を発展させたい、という人情も大事にする。
疑いながら続ける、というのがもっとも自然で、人情にかなうというのです。
疑うからすぐやめてしまうのは、(この人のこの状況では)不安に振り回された態度。
だからといって、厳に存在する疑いを無視し、そんなものないかのようにして
研究に邁進するとか、
研究するには疑いがあってはいけない、といって無理に疑いを消そうとする。
どちらも自然の人情を無視した態度です。
疑いながら続けていれば、やがて、おのずからどうしたらいいか結論は出てくるでしょう。
落ち着くべきところに落ち着くでしょう。
疑うという部分を大事にしないで、あえてなくしてしまうとどうでしょう。
つまり「やるべきこと」なのだから、と考えて疑いを相手にしないで、
研究に邁進しつづける。
こういう態度を身につけると、
本当に疑った方がいいときに、それでもその行為をやってしまう、というような
身動きの不自由さにみたされるでしょう。
あるいは微妙な人情、感情を無視してしまうようになるとどうでしょう。
遠慮した方がいい場面で、他人に声をかけてしまうとか、
自分の意見を一方的に言ってしまうようになります。
対人恐怖の人が、
誤解された森田療法の、「なすべきをなせ」、ということに
従って、
柄にもないナンパをして、当然ながら失敗をしてしまうという話もあります。
「不安でも行動」というモットーにだけ従って、
自然に沸き起こる人情からの調節作用を無視した結果です。
自然に沸き起こる人情は、都合が良くても悪くても、沸き起こった以上、無視することはありません。
過食についての森田の指導
森田の時代、
つい食べ過ぎてしまう、という「食欲恐怖」の患者がいました。
森田は彼の訴えに対しなんと言ったでしょうか。
「食べたい気持ちをそのままに、必要と思える量だけ食べるようにする」
でしょうか
「そのまま生活に前進」でしょうか
ただ外に向かっての生活をひたすら勧めたのでしょうか
あるいは「不問」を金科玉条のごとくまもって、
黙って無視したのでしょうか。
この患者への指導は
「好きなだけ食べて良い」
でした。
その結果、患者は、かえって調節して食事をするようになったとのことです。
つまり、ここでも明らかになるのは、
森田の治療の要点は
「思想の矛盾の解消」にあった
ということです。
患者の「食べ過ぎてはいけない」という
「かくあるべし」にポイントを当て、そこを崩したのです。
「食べ過ぎてはいけない」という思想がかえって
「食べたい」という欲望を刺激し、抑えきれなくて、
結局食べ過ぎていた、
という
悪循環を打破したのです。
いくらでも食べてよいし、
食べたいという気持ちを自然と受け入れることによって、
かえって、
「食べ過ぎては体に悪い」とか「食事ばかりしてるとやりたいこともできない」
といった生活上の向上欲も彼の中から(外からの押し付けでなく)めざめ、
量を調節することができたのです。
結果的に
「食べたい気持ちのままに、食べる量を必要なだけ調節する」
が実現できたのです。
ひとこともそんなことは言わずに。
勿論患者によっては「なすべきをなせ」式の指導もありえるでしょうが、
とにかく共通するのは、
自分の自然な感情を抑える傾向、押し殺す傾向
「不安なのに不安でいけないと思う、食べたいのに食べなくてはいけないと思う」
からもっと自由になるということが要点です。
常に外向きの行動に励んでいる人、
そのことによって自分の感情を無視、黙殺しようという無理をして、
それが治療だと思い込んでいる人は、
考えてほしいエピソードです。
つい食べ過ぎてしまう、という「食欲恐怖」の患者がいました。
森田は彼の訴えに対しなんと言ったでしょうか。
「食べたい気持ちをそのままに、必要と思える量だけ食べるようにする」
でしょうか
「そのまま生活に前進」でしょうか
ただ外に向かっての生活をひたすら勧めたのでしょうか
あるいは「不問」を金科玉条のごとくまもって、
黙って無視したのでしょうか。
この患者への指導は
「好きなだけ食べて良い」
でした。
その結果、患者は、かえって調節して食事をするようになったとのことです。
つまり、ここでも明らかになるのは、
森田の治療の要点は
「思想の矛盾の解消」にあった
ということです。
患者の「食べ過ぎてはいけない」という
「かくあるべし」にポイントを当て、そこを崩したのです。
「食べ過ぎてはいけない」という思想がかえって
「食べたい」という欲望を刺激し、抑えきれなくて、
結局食べ過ぎていた、
という
悪循環を打破したのです。
いくらでも食べてよいし、
食べたいという気持ちを自然と受け入れることによって、
かえって、
「食べ過ぎては体に悪い」とか「食事ばかりしてるとやりたいこともできない」
といった生活上の向上欲も彼の中から(外からの押し付けでなく)めざめ、
量を調節することができたのです。
結果的に
「食べたい気持ちのままに、食べる量を必要なだけ調節する」
が実現できたのです。
ひとこともそんなことは言わずに。
勿論患者によっては「なすべきをなせ」式の指導もありえるでしょうが、
とにかく共通するのは、
自分の自然な感情を抑える傾向、押し殺す傾向
「不安なのに不安でいけないと思う、食べたいのに食べなくてはいけないと思う」
からもっと自由になるということが要点です。
常に外向きの行動に励んでいる人、
そのことによって自分の感情を無視、黙殺しようという無理をして、
それが治療だと思い込んでいる人は、
考えてほしいエピソードです。
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