fc2ブログ

心地良い無力感がありますか?


森田療法を実践していると、

その過程で、
自覚に伴う、心地良い無力感といったものを
体験します。

それはラクになる体験です。

なので、
ラクさのない、解放感のない、ただ苦しいだけの
感覚しかなかったら、それは森田療法ではないよ、
森田療法とは似て異なるものだよ、と何度も申し上げているわけです。


ラクさがなければ、それは森田療法じゃない。


では、なぜ楽になるのか。

自覚をして、事実をよく見るからです。

事実を見ると、なぜ楽になるのか。


そもそも神経症とは、

「こうでありたい自分」を想定して、
それを現実の自分とはきちがえて、現実に対処している結果、
無理が生じて苦しんでいる、

そんな状態です。

それが苦しいのは当然です。
「こうでありたい自分」は、虚像なのですから。



「何事にも興味があるべき」
「なんでも理解ができる」と、

能力以上の自分を想定してみても、
実際はそうでないから、
意に反して、本が読めなかったりするとき、
興味が続かないときに、
慌てたり、悩んだり、パニックになったりする。

自分を買いかぶっているけど、実際はもっと
劣るので、現実には当然うまくいかない。

そんなとき、事実を見れば、
楽になるのは当然です。

わかりますよね?

本当に、単に、事実を見ればいいのです。
「かくある自分」を、検討してみるのです。

そうすると、意外に根気がない。理解力も悪い、
そんな自分に気づく。

等身大の自分にきづいたとき、
そこに心地良い無力感がうまれます。

現実となじむことによる安心感です。

その上で、読書を満喫したければ、
能力の悪いなりに、ゆっくり読むとか、
工夫が生まれるでしょう。

  もともとあった、完全欲さえここで
  邪魔にされず満足されます。
  (完全欲を否定する、心理的アプローチは多いのですが
  それはよくないのです。完全欲も事実ですから)




*******************

ちょっと例えてみます。


極辛のカレーを完食しようというとき、
能力を過信して、水なしで一気に食べようとして、
それができないで悩んでいるのが、
神経症者です。

うまくいかなかったら、
事実をよく見て、自分にそんな能力がないとしり、
水飲んだり、テンポを落として食べればいいだけです。

実は森田療法ってそんな簡単なことなんです。


*********************

さて、
心がどんなであれ振り返らず、
ただ必要に応じて前へ進む、
というやり方では、
こうした自覚の大切で、必須のプロセスが
消し飛ばされ、ほとんど効果がない、危険な賭けになりやすいのです。

********************


苦しい時、なにか頑張ってもうまくいかないとき、
立ち止まって自覚を深めてください。



スポンサーサイト



モダンな治療法

森田療法はあの時代にしてはおそろしくモダンで、
実際的で、無理がなく、根性や精神主義から
はなれたものです。

たとえば
「朝寝坊することそのものに、本来いいも悪いもない」
明治生まれの郷士出身の人が、そんなことを言っている
そこに目を見張って欲しいですね。


認知療法のほうがよっぽど無理とか我慢を強いるものかもしれない。まあよく知らないけど。

しかし森田のあの柔術家みたいな風貌のせいか、
森田原典の固い文章のせいか、
まったく逆のイメージを持たれています。
森田療法?修身の教科書みたいなんでしょう?なんてね。

しかしそのもっとも大きな理由は
後代の森田療法家が
禅と関連付けたり、行動の強調をしたりして、
結局修養や、ナニワブシにしたてあげたからではないでしょうか。

ネット上の森田体験談、森田的アドバイスでは、
ナニワブシの百花繚乱です。

鈴木知準さんなどは、入院生が
朝寝坊をしようものなら、
たちまちお説教がはじまり、
しまいには僕は神経症治癒して以来、
一度も朝寝などしない。
という話になります。
それってそんなにエライの?

というか、その手の完璧さを誇ったり、
強いたりする発言が
ポロッと出るあたり、彼が本来の森田療法家ではないことを示しています。

森田療法家は、人間の不完全さ、弱さに対して、こんなに断罪的ではないのです。

この点、「スーパー健康人」をめざせ、と語る宇佐晋一先生も同じことでしょう。

治療者が森田療法本来の精神からズレてしまうと、例えば原法を厳守した施設を経営しているというようなことを標榜されても、それがプラスになりません。

結果的には、
森田療法での自然な治り方とは異なる、強迫的、自己愛的なタイプの「全治者」を多数輩出するハメになります。

ともあれ、

自由から規範へ
観察から掛け声へ
解放から束縛へ

と森田療法はニュアンスを変えてゆきました。



単純なモットーで言い切れるもの

(「なすべきをなせ」「只管行動」「そのまま前進」「他人のお世話をしなさい」)

の方が日本人が好きなのかもしれません。



森田自身の語る「行動」その2


いかがでしょうか。これが森田のいう、自然の衝動としての、
行動、です。むしろ「活動」といったほうがいいでしょう。


わかることは、

a. 誰からも強制されていないこと。自発的であること。義務感ナシ!!

b.「眼に触れるままに」「ふと」という語からわかるように、
 突発的であること、つまり「感じからの出発」であること
 それは「人情からの出発」ともいえます。

c.いわゆる観念、思想から出発していないこと。
 つまり、女中を手伝うのは、「奉仕の精神」などからではない、ということ。
 「他人のお役に立つことをしなさい」という禅的森田指導とは全く違うのです。

d.したがって、やることが社会的価値から自由であること。
 蟻の穴の追求などの例。なんの役に立たないことでもOK。

e.この、「自然な活動欲」の生ずる準備段階として、「いつまでも寝ている」
 という境遇が用意されていること。



特に、eはすごく重要です。
「いつまでも寝ている」ということは、「なにもしなくともよい境遇」
(森田自身の語)を保証していることになります。


義務感でがんじがらめの神経症者に、いっぺん、
「本来、人間は何かをしなくてはいけない、ということはない!!」ということを
体験のかたちで保証しているのです。
「何もなすべきことなんてないんだ」と保証しているのです。森田療法って。


そして、人間の活動とは、実は
「やらなくてはいけないからやるのではなく、やりたいからやる」
ものなのだ、ということが、その後の一連の流れで体得されることになってます。




面白いのは、この文章の中で、この活動欲を、食欲にたとえていることです。

食いたくもないのに食事をするのは、ものすごくバカバカしいことなのは
だれにでもわかるでしょう。

さもなければ、食欲もないのに食べている人は、

「人間は一日にこれだけの栄養をとらねばいけない」
とか
「食事は一定の決められた時間にとらなくてはいけない」
とでもいうような「思想」に支配されている場合でしょう。


人間のその他の活動も、同じです。
その気もないのに、活動するのは馬鹿げています。

ともかくも、わかることは、
ある種の森田療法、変質した森田療法での行動は、
食欲もないのに食事をすることに近い、ということです。


無理して、やりたくもない行動に不自然にはげむということを
森田は一言も言っていないのです。
(やりたくないことをいやいややることはありますが・・
 これもやりたくないけど、ほうってもおけない、という
 自然な人情から出発してるだけのことです。)

「やりたい、やりたくないにかかわらず決められたことをする」
という後世の指導者の言葉は、したがって、
森田療法の趣旨からはずれます。

本人がしっかり「自然な衝動としての行動」の体験を
濾過しない治療は、森田療法ではないのでしょう。


森田療法を実践して、義務感覚しか感じられない人は
いまの方法を再検討してみて悪くないと思います。

森田自身の語る「行動」その1


森田療法は、とにかく行動しろ、という治療法のように思われがちです。
まず動くことだ、外の事柄にさっそく取り組むのだ、というように。

そのさい、本人の「やりたい気持ち」「やりたくない気持ち」
といったものは不問にされ、
あるいは振り返ることさえタブーとされるものになるようです。



ところが森田のいう「行動」は、本来もっとニュアンスがことなります。



はっきりいえば、本人のやりたい気持ちから生じる行動を、
森田は「心身の自然現象」として、讃えているのです。


具体的に彼の文から引用しましょう。

「まず試みにいつまでも寝ていてみるとする。・・・数日後には、
活動の欲望が高まってきて、無聊の苦しみに耐えられなくなる。

・・・寝床を出て終日、日光と空気の中で庭にたってみる。
いつとはなしに何かに手を出すようになる。

あるいは庭の隅々から掃除をし、・・・あるいは蟻の穴をどこまでも
追求するとかいうふうになる。

・・・さてまた、眼に触れるままに、下駄の鼻緒の切れたのを直す・・・
今まで習ったことなく、したこともないのに、
やってみればチャーンとできる。

ふと縁側のカナリヤに目がつく。その籠を掃除し、水をかえ、
菜っ葉をやる。これが自然の愛の発露である。

あるいは女中の代わりに風呂をたいてやる。
けっして生活の手段のため、愛のため、さては
社会奉仕の目的でするのではない・・・」



つづく

解放させるもの・束縛させるもの


森田療法には、

「森田療法は禅そのものである」と主張する
禅的森田療法とでもいいうる一派が存在します。

その主張にかならず見受けられるのは、

「我々こそ森田療法の原法を受け継ぐ本物、
 他の森田療法はマチガイで変質している、
 他の森田療法指導者はわかっていない、悟っていない、
 禅を知らない、だからダメ」


というものです。

あるいは本来の森田療法を我々はさらに進化させている、
という主張もあります。



しかし
禅的森田療法の指導は、むしろ森田療法の本質から変化しているというのが
私の考えです。
というより経験や見聞から得たファイナルアンサーです。



もちろん、この答えを信じる信じないは自由です。

ただ、あまりいわれないことなので、
このように言葉で残しておいてもいいかと考えています。



禅的森田療法は本来の森田療法の本質から変化している。


つまり、本来の森田療法がもたらすのが、
強迫からの解放、思想からの解放、人情への復帰
であるとするならば、

禅的森田療法はその逆なのです。

人情の抑圧であり、禅、仏教などへの思想的レベルでの拘泥であり、
またなにより患者の強迫を強める装置としては
多大な威力を発揮しています。


禅的森田療法の指導者やその周辺の賛同者は、
患者に対して、その強迫性をつよめるような言葉を多く発しています。



たとえば、

「心の状態を自分の行動の原理にしないことです。
 例えば不安の時には消極的になったり、安心の時には積極的になるのは、
 人情ながら本物ではない」

などと指導者はいうのです。


「本物ではない」のひとことが強迫へのスパイスとして効いています。




哀れな患者は、その言葉を聞いて、「本物」にならなきゃ、と
焦りだします。(この、本物にならなきゃ、なれなくては大変だ、
という心理がすでに強迫的です)

そうして、大事な人情をおさえつけて、落ち込んでいるときにも
やたら元気に精力的に、笑顔をふるまい、
やりたくもない、やらなくてもいい「作業」を精力的にこなす、
「スーパー健康人」ができあがります。



まわりは、そんな彼をみて、気持ち悪いので、
あまり近づきたがらず、浮いてしまいます。


まわりは、彼の「心の偽装」の癖をちゃんとみぬいています。
表面的には丁寧なふるまいをしていても、
「この人物、油断がならない。本音をださない」
「こいつとつきあっても面白くない。やたら丁寧だけど。」
などと知らず知らずみぬいて、あまり付き合わないようになります。


実際森田療法のまわりで、こういう「慇懃無礼」な人物は、
多くみうけられます。


表面的にはやたら丁寧、それでいて、その裏に、
「自分の考えを他人に納得させたい」(それは禅的森田こそ本物だという
ことが多いですが)
という強いドグマを感じさせているので、
丁寧さが一転、相手を侮辱した言い草に変化したりします。



それはともかく、


行動が心の状態の影響をうけるのはよくない、


という指導者の言葉は、
じゅうぶん患者を強迫的にさせるチカラをもってしまうのです。



まして入院という遮断された環境の中で、
カリスマのように多かれ少なかれ在らざるをえない
指導者の言葉ですから、
盲信して、強迫的に健康にふるまい、
心の声を無視して、
そうして退院したらドッと疲れて、
その後はなにもしなくなったりする、のです。

そしてその、「何もしなくなった自分」は
指導者の言葉と食い違う訳ですから、

そうした自分をやたら責める、

という苦しい日々をおくることになります。


周囲の人から見れば、
「彼は森田療法の入院をしなければ、こんなに
おかしくならずに済んだのに・・・」
といったところでしょう。


********************


さて、森田自身なら、どういうでしょうか。

うつ的な患者に語った言葉が残っています。

「僕も、ときどき心が滅入って、何をするのも嫌になることがあります。
 そんなときには、ひとりトランプの札をならべたりして、
 時間をつぶしています。しかし、そんな場合でも、
 大事な用事だけは、いやいやながらかたづけます。
 そうしているうち、いつのまにか心は転換して、また
 元気が出てくるのです」

  (「人生晴れたり曇ったり」水谷啓二著 春萌社)



むしろ人情にしたがって、自然にふるまっている様子がつたわります。

何もしたくなくてトランプをいじるのも、
大事な用事があるからしかたなくいやいややるのも、
むしろ人情に忠実である結果であることが
見えてこないでしょうか。


「人情ながら本物ではない」などと
脅しをかける指導との違いを、よく味わって欲しいです。